ミツバチは、最初、人間に有用な産物を提供してくれる自然界の昆虫であったが、後に、人間はその一部を飼育するようになった。この歴史からも推察されるように、ミツバチの研究は、自然界の昆虫としての生態と養蜂技術という、主に2つの視点から研究されてきた。
自然界の昆虫としてのミツバチは、集団で生活する社会性をもった動物のモデルとして、そうした行動と、その基礎となる分子的な仕組みに関心がもたれている。F. フリッシュらのミツバチの認知とコミュニケーションに関する研究は一般にもよく知られている。また、養蜂技術としては、農作物の花粉交配者 pollinator としての有用性と、蜂蜜、蜜蝋、プロポリス、ローヤルゼリー、ハチ毒など、いわゆるミツバチ産品をもたらす有用性という2つの視点から研究されてきた。
ミツバチの利用という視点では、欧米では大規模な農園における花粉交配に貸し出すビジネスが主流であるが、日本では、ミツバチ産品の有用性に着目したビジネスにより関心が集まっている。
ミツバチ研究に、こうした基礎的な研究と、ビジネスに関連した応用的な研究の2つの流れがあることには変わりがないが、現在、双方の研究とも研究のスタイルは大きく変貌しようとしている。そうした変化の牽引役になっているのが、ゲノム解読技術とITである。21世紀に入った生物医学および健康科学は、ヒトゲノム解読計画から始まったいわゆるゲノム革命とインターネットに象徴されるITの急激な進歩で、研究スタイルが大きく変貌しており、また進歩も加速されている。このことはミツバチ研究においても例外ではない。
ミツバチ Apis mellifera の全ゲノム解読結果は、2006年10月の Nature に報告されたが、そうした解読計画が発足した頃よりミツバチ研究にも変化の兆しが見えてきている。そうした変化は、以下のように要約できる。
ミツバチおよびその産品研究において、基礎と応用の壁が取り払われてきている事例として挙げられるのが、最近注目されているコロニー消失現象、Colony Collapse Disorder(CCD、蜂群崩壊症候群)の研究であろう。この問題には、基礎か応用かを問わず、すべてのミツバチ研究が動員されている。
このサイトでは、ポストゲノムという新しい時代精神を意識して、ミツバチおよびミツバチ産品研究全体の動向を紹介することを目的としている。ここでは、基礎研究と応用研究をともに紹介する。ただし提供する情報は、網羅的でなく事例的なものに限定している。
なお、ミツバチ研究に限らず、生物医学研究におけるゲノム解読の成果と情報技術(IT、計算機)の活用に関わる技術や情報は、このポータルにリンクされている外部サイトである、生物医学研究を支援する情報計算基盤(パスワードについては管理者に問い合わせること)にまとめられている。
ミツバチ honeybee と呼ばれて、養蜂において最も広く飼育されているのは、セイヨウミツバチ、学名でアピス・メリフェラ Apis mellifera と呼ばれるミツバチである。セイヨウミツバチを含む、ミツバチの属 genus としての Apis には、9(人によって10)の種 species が属している。そのミツバチ属は、スズメバチやアリと同じ膜翅目(ハチ目) Hymenoptera に属している。ハチ目は、昆虫綱 Insecta に属する。昆虫は、節足動物 arthropods という門に属する。
図2-1.ミツバチ、昆虫、類縁の節足動物の進化系統樹
赤字はゲノム解読が公表されているもの、青字は概要版、緑字は計画があるもの。
(The Honeybee Genome Sequencing Consortium, Insights into social insects from
the genome of the honeybee Apis mellifera, Nature, 443, 931-949, 2006 の Figure1を改変)
こうしたミツバチの類縁関係(系統発生学的な関係、phylogenetic relationships)は、ミツバチのミトコンドリアのND2 遺伝子と EF1-α イントロンを PCR で増幅して、配列を比較することでしらべられている(Arias05)。
表2-1.ミツバチ Apis、9種の名称と採集場所
(Arias05 の Table 1を改変)
表2-1から分かるように、Apis 属に属する10種のうち、9種の生息はアジア地域、とくに熱帯地域に限定されている。唯一、Apis mellifera だけが、アフリカ、中央アジア、北ヨーロッパに分布している。その Apis mellifera には、形態や生息する場所を異にする20を越える亜種 subspecies が存在する。
これらのミツバチの起源については、最初、西あるい中央アジアにおいて、トウヨウミツバチ Apis cerana と分岐して、そこからヨーロッパやアフリカに拡散していったという説と、アフリカを起源とするという説とが対立している。興味深いことに、新大陸と呼ばれたアメリカ大陸にはスペイン人が入ってくるまではミツバチがいなかった。その後、新移住者たちは主としてセイヨウミツバチを運びこみ、それらは、飼育あるいは野生のミツバチとして定着した。さらに1956年、より効率的な養蜂のために、Apis mellifera の亜種であるアフリカミツバチ Apis mellifera scutellata の女王バチ50匹が、南アフリカからブラジルに輸入された (Kraus07, Kerr1967)。これらのアフリカ種とすでに移入されていたセイヨウミツバチの間の交配種がアフリカ蜂化ミツバチ(Africanized Bees)である。
Whitfieldら(Whitfield06)は、300を越える個体の1000を越えるSNPを比較することで、Apis mellifera が、アフリカを起源としてユーラシアに少なくとも2度拡散していること、さらに、3度めの拡散として、アフリカミツバチがアメリカ大陸に移動した、と結論づけた。この研究に続く研究も発表されている(Zayed08)。
ミツバチのゲノム解読は、国際ミツバチゲノム解読コンソシアム The Honeybee Genome Sequencing Consortium06 という170人の研究者が名を連ねる研究者グループの仕事として行われた。
ミツバチのゲノム解読はセイヨウミツバチ Apis mellifera を対象に行われ、2006年10月号に発表された(The Honeybee Genome Sequencing Consortium06)。
その成果は膜翅目(ハチ目)Hymenoptera としては最初、昆虫としてはショジョウバエ Drosophila、ハマダラカ Anopheles に続く3番目となる。そのデータは、現在以下のサイトに置かれている。
The Honey Bee Genome Sequencing Project(HBGP)と呼ばれたこの解読事業の概念が討議されたのは、1998年から2001年頃のことであり、そのリーダーは、イリノイ大学の Gene Robinson、Bee Power社の Daniel Weaver、農務省の Kevin Hackett たちで、彼らはベイラー医学校のヒトゲノム解読センター Baylor College of Medicine Human Genome Sequencing Center(BCM-HGSC)に集まって全ゲノム配列決定プロジェクトに関する話し合いをもった。このプロジェクトは、NIHの国立ヒトゲノム研究所 National Human Genome Research Institute によって、比較ゲノム研究計画 comparative genomics program として高い優先順位が与えられた。このプロジェクトには農務省の支援も得られた。かくして、プロジェクトはBCM-HGSCで2002年に開始された。
ゲノムの解読はショットガン法で行われ、300万のDNA配列がアッセンブリーの対象になった。対象となったDNAは、単一の女王バチの子供である複数の雄バチからえている。
新たに解読されたミツバチ・ゲノムデータの解析には、最終的に、63機関、112人という多数の研究機関と研究者たちが参加を表明した。この時まとめられた研究目的には、以下のような項目が含まれていた(Robinson06)。
かくして、ミツバチを、線虫、ハエと同じように多細胞動物(後生動物 Metazoan)のモデルとみなした、ゲノムを基礎にした新しい研究が始まった。そうした研究のいくつかは、すでにゲノム解読が掲載された Nature 誌と Robinson06 論文が掲載された Insect Molecular Biology 誌、および2006年11月の Geneme Research 誌に特集記事として掲載されている。
なお、その後、昆虫である甲虫目に属するコクヌストモドキ Tribolium castneum のゲノム解読が発表された。甲虫目は真核生物の中でも最も種類が多く、昆虫の発生や害虫としてのモデル動物である(Tribolium Genome Sequencing Consortium08)。
ゲノム解読、すなわちある生物種のDNAの全塩基配列が決定されると、まずなされることは、遺伝子領域、すなわちタンパク質をコードしている塩基配列の部分の推定である。データ量が多いから、これはコンピュータを使って自動的に行われる。ミツバチのゲノム配列データから遺伝子領域を推定する問題には、GLEANと呼ばれる方法が使われた(Elsik07, Liu08)。
これによって、10,157の遺伝子が同定(推定)された。それらの遺伝子には、日周期 circadian rhythm、RNA干渉(RNAi)、DNAメチル化に関与するものが含まれていることがわかった。またそのことから、ミツバチのゲノムが、ショウジョウバエやマラリア蚊などのゲノムより脊椎動物のそれに近いことがわかった。
なお、16,343塩基対あるミツバチ Apis mellifera のミトコンドリアのゲノムの解読は、すでに行われており、タンパク質をコードしている遺伝子が13あることがわかっている(Crozier93)。
ミツバチのような多細胞動物のゲノム解読で最も興味を持たれる対象の一つは、発生に関与する遺伝子の問題であろう。そうした遺伝子を他の動物と比較することは、進化の研究となる。Deardenらは、ミツバチとショウジョウバエの発生に関わる遺伝子を比較した(Dearden06)。およそ3億年前に分枝したと推定されているこの2つの昆虫における、発生に関与する保存されている経路として、細胞信号伝達、体軸形成、体節形成、転写因子であるホメオボックス(タンパク質)を選択し、それらの経路にでてくる遺伝子を比較したところ、非常に多くの遺伝子が両者で共通に保存されていることがわかった。
しかし、発生過程の違いも見られ、その最も特徴的な例は、生殖過程である。ミツバチの雄は、半数性の未受精卵から、ショジョウバエは2倍性の受精卵から生まれる。またミツバチ雌雄(性)の決定はショウジョウバエのような性染色体ではなく、対立形質をもった単一の部位 loci に依存している。また、ショウジョウバエに見られミツバチでは見られない遺伝子の多くが、ショウジョウバエでは単一の機能しか担っていないことから、これらの遺伝子は、ショウジョウバエにおいても、比較的最近(ミツバチと分枝してから)生じたものではないか、と Deardenらは推測している。
同じく発生に関与するタンパク質群として、Zouらは44個の serine protease 遺伝子と、13個の serine protease homolog 遺伝子を同定し、ショウジョウバエなどとの比較によって、それらが胚発生や自然免疫応答に関与していると推定している(Zou06)。
ミツバチ産品の視点から、ミツバチのタンパク質として最も興味を持たれているのは、ローヤルゼリーである。これについては、Albertらがゲノム解読がなされる以前にcDNAを集めた進化的な解析を行っている。彼らはミツバチの major royal jelly proteins (MRJPs) の遺伝子群が、ショウジョウバエの yellow protein のそれと非常に似ていることを見出している(Albert99)。さらに Drapeauらは、それらの9つの遺伝子が、一列にならんでいること、それらが単一の yellow protein をコードしている祖先遺伝子から生じたらしいと推定した。また、MRJP と yellow protein は共に、発生と生理的な過程において、状況依存的で多様な機能を担っており、このことは、ミツバチが社会的な動物であることと関係しているのではないか、と推察している(Drapeau06)。
多細胞動物は、生存に必要なエネルギーの大部分をミトコンドリアで変換するが、その際生体には有害な活性酸素種 Reactive Oxygen Species (ROS) が発生する。多細胞動物には、これを消去するための仕組みが備わっているが、この仕組みは多細胞動物の本質的な生体防御機構であるから、種を越えて保存されている可能性がある。そこで、G. E. Robinsonらは、ミツバチの抗酸化機構をショウジョウバエや蚊 Anopheles gambiae と比較することで、この機構に関わる抗酸化酵素遺伝子の多くが共通していること、ただしそれらの類縁タンパク質 paralog の数は種によって異なることを見出している(Corona06)。
ミツバチのような社会的な昆虫は、頻繁に病原体と接触する可能性がある。そこでそうした病原体から身を守る機構を多様に進化させてきたと考えられる。その一つが自然免疫 innate immunity である。Decaniniらは、自然免疫に関わる抗菌ペプチドである abaecin の産生が、世代を越えてどのように継承するかをしらべ、集団として生活することで、防護機構も多様性を獲得できるという有利さがあるのではないかと推察している(Decanini07)。
タンパク質については Kaplanらが、マウスやショウジョウバエを含む既存の約20万のタンパク質から作成した系統樹にミツバチのタンパク質をマップして、遺伝子の機能予測を行っている(Kaplan06)。この結果は、ProtoNet (http://www.protonet.cs.huji.ac.il/) に収録されている。
また、hemolymph(血リンパ、ミツバチの血体腔を流れる体液)中のタンパク質のデータベース the Honeybee Hemolymph Proteomics Database(http://foster.nce.ubc.ca/bee/)も作成されている。