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Ⅳ. 新しい医学とミツバチ健康科学
   —3.経路網からの疾病の理解と薬物標的探索 (1)—

3.1 変わる医学教科書と医薬品開発の概念

    経路網の蓄積と図式化は、生化学の代謝マップとして計算機が使われる以前から知られていた。しかし、細胞内の信号伝達系のデータベースづくりが始まったのは1990年中頃、WWW技術が出現した頃であった。さらに、遺伝子調節のネットワークやタンパク質ータンパク質相互作用データの蓄積と図式化が行われるようになったのは、オミックス技術が普及した1990年代の終わり頃である。その頃から経路網データベース(知識ベース)開発はブームとなり、2000年頃には、Nature, Science という著名な科学雑誌がこの課題に特化したオンライン雑誌を相次いで創刊したほどである。
    それ以後、Pathway/Network to Disease, Toxicity, Development,・・・など、“Pathway/Network to ・・・”は、すっかり生物医学研究の枕詞になってしまった。この間にデータベースの数は増え、数年前には200を越えている(例えば PathGuide, http://www.pathguide.org/ を参照)。さらに Gene Ontology (GO, http://www.geneontology.org/)とともに、膨大な Omics データの解析と解釈のための基盤知識とみなされるようになってきた。
    このような潮流は、いまや医学の中核である疾患の概念や記述の仕方を変えるほどに勢いづいている。実際、「これまでは臓器別に捉えられていた疾患の概念を、経路網を基盤としたそれに変換していく」、という作業がすでになされるようになっている。このことは、医学の知識体系が再構築されつつあるという、医学史上未曾有の大転換が起きていることを意味する。
    こうした変化は医学の教科書にも如実に現われている。例としては、ラングマン Langman の発生学(Sadler05)と Weinberg のがんの教科書(Weinberg06)を上げることができる。Langman の発生学の教科書は、我が国の医学教科書としてもよく使われているが、2006年に出版された(原著)10版の序文には、「・・・分子生物学と遺伝学の進歩が発生の理解には欠かせなくなったので、最初の章で主要な signal pathway と信号分子とを説明しておく。・・・」というような記述がある。Weinberg の本の序文にもこうある。「・・・われわれはヒトの細胞の内部で働いている個々の信号分子については、相当の知識を得てきているが、それらが織り成す複雑な信号回路が、体のなかの個々の細胞の運命を決める、生死に関わる決定をどのように行っているかについては、よく理解していない・・・」。その具体的記述は彼の本の第6章にあるが、そこだけでなく、彼の本は全編、Pathway/Network to Cancer の精神で貫かれている。
    疾患の概念が遺伝子と経路網を基礎にしたものになり、医学教科書の記述が変わる、という動きは、今、医学の多くの領域に及び始めている。そしてこのことは、医薬品開発にも影響を及ぼすようになってきている。すなわち医薬品の研究開発においても、大切なのは「標的遺伝子(タンパク質)」ではなく「標的経路」だという考えが露に表明されるようになってきた(Fishman05)。2006年には、それを裏付けるようなReview誌として、Current Signal Transduction Therapy が創刊されている(http://www.bentham.org/cstt/index.htm)。また、NCI主導の Pharmacogenetics/ Pharmacogenomics Knowledge Base(http://www.pharmgkb.org/)では、医薬品情報と経路網情報とを直接結び付ける Graphical な知識表現が整備され始めている。こうして「経路網にマッピングした標的のデータベースを整備することが、医薬品開発につながる」ということも、製薬企業の研究者の間で理解されるようになってきた。
    かくして「経路網にマッピングした標的のデータベースを整備することが、医薬品開発につながる」ということも、ようやく製薬企業の研究者の間で理解されるようになってきた。同じことは、疾病の予防、抗加齢、健康食品やサプリメントの研究開発に関しても言うことができる。すなわち、このような製品の研究開発においても、「経路網からの疾病の理解と対策の探索」が基盤になってくると思われる。実際、例えば抗加齢について言えば、寿命(長寿)に関わる経路についての知識は急速に蓄積されており、そうした知識に基づいた標的(例えば Sirtuin)やそうした標的に作用する化合物(例えばレスベラトロール Resveratrol)が研究され、また商品化されてもいる。

参考文献

  • PathGuide(http://www.pathguide.org/)
  • Gene Ontology (GO、http://www.geneontology.org/)
  • T. Sadler, Langman's Medical, Lippincott Williams & Wilkins, 2005.
  • R. A. Weinberg, The Biology of Cancer, Garland Science, 2006.
  • M. C. Fishman and J. A. Porter, A new grammar for drug discovery, Nature, 437: 491-493, 2005.
  • Current Signal Transduction Therapy (http://www.bentham.org/cstt/index.htm)
  • Pharmacogenetics/ Pharmacogenomics Knowledge Base(http://www.pharmgkb.org/)

3.2 疾患概念を見直す視点

   経路網から疾患を理解するという医学研究の新路線は、残念ながら、まだ発展の途上にある。また病気の原因と結果としての様相は多様である。またいわゆる外傷などはこうした仕組みでの理解や記述には不向きである。それでも遺伝的な要因、さまざまな環境要因、病原体の感染、加齢などの影響や、外傷からの回復過程などは、経路網による記述が可能となるであろうと思われる。さらに最近は、腸内細菌叢の役割も認識されており、その構成要素である細菌のゲノムDNAを網羅的に解析するメタゲノムと呼ばれている解析技法も急速に普及している。
    そこで以下では、いわゆる Common Disease と呼ばれている、患者が多く、罹患する可能性の高い、よく知られている疾患群を取り上げ、経路網からの記述の可能性を考察してみる。ただし、以下で述べる考えは、まだ教科書に書かれているような定説ではなく、近未来の医学や健康科学を視野に入れた作業仮説とも言うべき提言である。
    具体的な例としては、がん Cancer、代謝性疾患 Mtabolic Disease、精神神経系の疾患としてのうつ病 Depression と神経変性疾患 Neurodegenerative Disease、感染症 Infectious Disease を含む免疫性疾患 Immune Disease という、代表的な4つの疾患領域をとりあげる。神経変性疾患とは、アルツハイマー病 Alzheimer's Disease、パーキンソン病 Parkinson's Disease、ハンチントン病 Huntington's Disease など神経細胞の崩壊を伴う疾患群である。

図4-5.疾患のさまざまな要因の概念

    以下の考察の出発点になるのは、疾患の原因あるいは誘因として、内部的にはヒトの身体の状態と遺伝的要因を、外部的には物理的環境、化学的環境、生物的な環境、生活労働環境を考えるということである(図4-5)。そのうち身体的な状態としては、人間に寄生している微生物、とくに腸内細菌や皮膚などに存在する細菌を含めることにする。そして観察指標としては、年齢を重視する。言うまでもなく、疾患の内部要因は、年齢によって大きく変動するからである。
    例えば、腸内細菌数は生まれた時はゼロに近いが、年をとって死ぬ時には、人間を構成する細胞の数(60兆と推定される)を上回るほど(100兆)に増大している(その数は、人間の総細胞数の10倍とも推定されている)。また遺伝的な要因が働きだすことにも、年齢が関係している。遺伝的な要因が顕著になるか否かは、その遺伝子がどの時期に発現されるかに依存しているが、ある遺伝子がいつ、どの組織において発現するかは、最初の受精卵が分裂を続けて増殖していく細胞系譜の発展に関係している。細胞系譜は細胞分化に関係しているが、特定の遺伝子が、成長している個体のどの組織(細胞)で発現するかは、この細胞分化や細胞の(3次元の細胞の集合体としての)個体全体における位置と不可分にむすびついている。
    このことは、遺伝的疾患がいつ顕在化するかを決定する基礎にもなっている。遺伝的な要因が顕著になるのは、胎児期であることも、新生児の時期であることも、子供から青年期であることも、成人期や高齢期であることもある。現在、昔は成人病と呼ばれ今日では生活習慣病と呼ばれている疾患の、原因遺伝子探索が盛んであるが、それらの発症は、これまでは、ほとんど成人期であった。ところが現在、我が国では、肥満、糖尿病、高血圧の症状を示す学童(小学生)が多く見られる、という報告がなされるようになった。こうした現象は、遺伝的な要因は変化していないが、環境が早期の発症を誘発したことを示すものである。このことはまた、疾患がさまざまな要因の相乗効果で顕著になることを示している。

(1) 遺伝の視点

    いずれにしても疾患を考える時、まず考慮すべきは、遺伝の問題である。だから、医学の知識体系の中核に位置するのは、ヒトの遺伝学である(Strachan04)。
    ゲノム解読を契機として、ヒトの遺伝学は生物学の中でも最も進んだ領域になっているが、遺伝的な実験や操作には、ハエや線虫のような簡便な動物の方がずっと向いている。つまり生物医学研究は、ヒトと、マウスや線虫やハエのようなモデル動物との間を往来することにより、迅速に進められるようになってきている。
    遺伝学の究極の目標は、遺伝子型 genotype と表現型 phenotype との相互関係を明らかにすることである。昔は、一遺伝子、一酵素という説を基礎に、酵素の変異と病気を結びつける考え方が主流であった。この考えにもっとも適合しているのが、ポーリング L. Pauling の分子病である。それはある種の貧血症状の患者に見られる鎌形(状)赤血球の研究から発見された知見である。こうした赤血球に含まれるヘモグロビンには、遺伝子の変異によるアミノ酸の置換が起きており、それがヘモグロビン鎖の形状と機能異常、さらには赤血球の形状と機能の異常を引き起こしているというポーリングの発見である。これはDNAの中で、タンパク質(この場合はヘモグロビンを構成する鎖の一つ)をコードしている塩基に変異が起きたことが、そのまま病気につながった、という典型的な例である。
    この例は、一つの塩基の変異が疾患を招いた、という例であるが、一つの遺伝子の変異に対応する塩基の配列の変異は一般には多様である。その多様な変異が、疾患の表現型としては、単一の疾患に対応しているのが、単一遺伝子疾患 Single gene Disease である。これはメンデル遺伝病 Mendelian Disorder とも呼ばれる。こうした疾患の出現は稀であるが、そのよく知られている例は、生まれてすぐ診断が可能な、先天性アミノ酸代謝異常症であるフェニルケトン尿症 Phenylketonuria である。
    一方、Common Disease と呼ばれている糖尿病や高血圧などの疾患には、複数の遺伝的な要因が関係している(多因子遺伝病)と考えられている。遺伝疾患としては、この他に、染色体異常、ミトコンドリア遺伝病、体細胞遺伝病などがある。体細胞遺伝病は、がんのように、これまでは変異の見られなかった体細胞がある時点で、DNAに疾患に至る変異が起きる場合である。
    一般に、遺伝子の変異から病気の現われ方までをつなぐ道筋は極めて複雑であり、解明されているものの方が少ないが、それらが遺伝子―タンパク質から、さらにタンパク質の相互作用による経路網の違いに起因しているという証拠は、現在急速に蓄積されている。
    遺伝子と疾患についての優れた解説であり、また、更新も行われているのが、米国NCBI (The National Center for Biotechnology Information) が提供している、Genes and Disease というサイトで、ここには80を越える遺伝疾患が本の形式で解説されている(NCBI)。ゲノム解読の熱意に較べると、遺伝子の変異と遺伝疾患についてのデータベースの整備は遅れ気味である。古典となっているのは、メンデル遺伝病のオンライン・データベースとして出発した OMIM だが、Human Mutation Database や HUGO Mutation Database など新しい計画も進んでいる(OMIM、Human Mutation Database、HUGO Mutation Database Initiative, COSMIC)。
    なお、メンデル遺伝疾患と違って、複数の遺伝子の関与する Common Disease の遺伝子の同定は、当初の予想より困難なことが判明しており、ゲノム学の中心的な課題になっている(Ropers07)。

参考文献

  • T. Strachan & A. P. Read, Human Molecular Genetics 3, Garland Science, 2004.(笹月健彦、辻省次 監訳、ヒトの分子遺伝学 第3版、メディカル・サイエンス・インターナショナル、2005)
  • NCBI Genes and Disease (http://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/bv.fcgi?call=bv.View..ShowSection&rid=gnd)
  • OMIM(www3.ncbi.nlm.nih.gov /Omim)
  • Human Mutation Database (www.hgmd.org)
  • HUGO Mutation Database Initiative (www.genomic.unimelb.edu.au/mdi/)
  • The Catalogue of Somatic Mutations in Cancer (COSMIC, http://www.sanger.ac.uk/cosmic)
  • Hans-Hilger Ropers, New Perspectives for the Elucidation of Genetic Disorders, The American Journal of Human Genetics, 81: 199-207, 2007.

(2) 進化と発生の視点

    遺伝と経路網という枠の中で、疾病を考えようとした時、次に問題になるのは、個体の置かれた環境である。これについては、受精卵から育っていく母体の環境、新生児の環境、発育期の子供の環境などの外部要因と、成長する個体を構成する細胞集団(器官や組織)の中の個々の細胞内の分子相互作用としての経路網の状態と疾患との関係を考えるということを意味する。そこでは当然食事も含まれる。食べ物は主要な環境要因である。
    個体の環境を考える前提となるのは、発生過程である。発生過程は本来の遺伝的な素質と環境との相互作用の場になる。そこでは、発生に関与する遺伝子(Davidson86)と胚(胎児)の育つ環境の双方を考慮に入れなければならない。例えば、発生の初期には遺伝的なプログラムが支配的である。また母親が飲んだ薬の影響は、妊娠中のある時期だけにとくに顕著であることはよく知られている。
    このような問題を考えるための基礎となる重要な事実は、「ヒトやハエや線虫を含む後生(多細胞)動物の発生に関わる経路網が驚くほどの共通している」、ということである(Peterson00)。例えば、Leungらは、脊椎動物であるヒトと線虫 C.elegans を比較してみた場合、既知の18の経路のうち、12が両者に共通するものであったと言っている(Leung08)。さらに、共通性が見られる経路で多いのは、発生に関与するものであることが報告されている(表4-3参照)。

表4-3.脊椎動物と線虫に見られる経路

    後生(多細胞)動物に見られる経路の比較。線虫と脊椎動物に共通する経路は12あり、いずれかにしか見られない経路が8ある。(出典、M. C. Leung et al., Caenorhabditis elegans: An Emerging Model in Biomedical and Environmental Toxicology, TOXICOLOGICAL SCIENCES 106(1): 5–28, 2008. および Scientific Frontiers in Developmental Toxicology and Risk Assessment, 2000.
(http://www.nap.edu/openbook.php?record_id=9871&page=R1)、TABLE 6-2.)

初期発生に関与する経路
  • Wnt pathway via β-catenin
  • Receptor serine/threonine kinase (tumor growth factor-b receptor) pathway
  • Receptor tyrosine kinase pathway (small G-protein [Ras] linked)
  • Notch-delta pathway
  • Receptor-linked cytoplasmic tyrosine kinase (cytokine) pathway
発生後期(器官形成や組織再構成)に関与する経路
  • Apoptosis pathway (cell death pathway)
  • Receptor protein tyrosine phosphatase pathway
胎児や幼児や成人など分化した細胞の生理機能に関わる経路
  • G-protein coupled receptor (large G-protein) pathway
  • Integrin pathway
  • Cadherin pathway
  • Gap junction pathway
  • Ligand-gated cation channel pathway
線虫と脊椎動物のいずれにしか見られない経路
  • Wnt pathway via c-Jun N-terminal kinase
  • Hedgehog pathway (patched receptor protein)
  • Nuclear factor kappa-B pathway
  • Nuclear hormone receptor pathway
  • Receptor guanylate cyclase pathway
  • Nitric oxide receptor pathway

    よく知られているように、発生に関わる遺伝子や経路網の発見は、ヒトよりはショウジョウバエ Dorosophila Melanogaster、線虫 C.elegans、ゼブラフィッシュ Zebra fishなど、詳細な遺伝的な解析ができる簡便な多細胞モデル動物を使った研究で行われてきた。その後、海綿、ウニ、ホヤ、ミツバチなど、どちらかと言えばこれまではモデル動物とは見なされていなかった後生(多細胞動物)動物のゲノムが解読されるようになってくると、経路網に関与しているタンパク質が進化の上で保存されているか否かがしらべられるようになった。その結果、後生動物 Metazoaで発生に関わっている分子や経路がよく保存されているということがわかってきた(Halfon02, Kleinjan05, Stathopoulos05, Davidson06)。
    それらは、Hedghog, Wnt, Receptor Tyrosin Kinase (RTK), TGF-β, Notch, Jak/STAT, Nuclear Receptor (NR) などである。これらの経路網が保存されているということは、細胞外からの信号分子、受容体分子、転写因子、転写因子(とその複合体)が結合するDNAの(応答)配列、転写因子の標的遺伝子群などに、共通性が見られるということである。
    このような発見は、発生過程を分子レベルで見た場合、進化の過程でもよく保存されていることを物語るものである。こうした発見から、進化と発生を結ぶ Evo-Devo 問題と呼ばれる分野が意識されるようになってきた(Wilkins02)。もちろんこの関係の底には、遺伝の仕組みが介在している。それゆえ経路網からの疾病の理解と対策の探索を具体的に展開するためには、「進化―遺伝―発生」という、3つの視座から考察することが必要である。

参考文献

  • Eric Davidson, Gene Activity in Early Development (3rd), Academic Press, 1968/1976/1986.
  • K. J. Peterson, E. H. Davidson., Regulatory evolution and the origin of the bilaterians, PNAS, 97(9): 4430-4433, 2000.
  • M. C. Leung et al., Caenorhabditis elegans: An Emerging Model in Biomedical and Environmental Toxicology, TOXICOLOGICAL SCIENCES 106(1): 5–28, 2008.
  • M. S. Halfon, A. M. Michelson, Exploring genetic regulatory networks in metazoan development: methods and meodels, Physiol Genomics, 10: 131-143, 2002.
  • D. A. Kleinjan, V. van Heyningen, Long-Range Control of Gene Expression: Emerging Mechanism and Disruption in Disease, Am. J. Genet., 76: 8-32, 2005.
  • A. Stathopoulos, M. Levine, Genomic Regulatory Networks and Animal Development, Developmental Cell, 9: 449-462, 2005.
  • E. H. Davidson, D. H. Erwin, Gene Regulatory Networks and the Evolution of Animal Body Plans, Science, 311: 796-800, 2006.
  • A. S. Wilkins, The Evolution of Developmental Pathways, Sinauer, 2002.

(3) 簡易モデル生物の有用性

    ゲノム解読とそれに随伴する技術の進歩は、ヒトだけでなく、他の多くの生物、とくに後生動物のゲノム配列を明にした。こうして生まれた比較ゲノム学が明らかにした興味深い事実は、先に述べたように、発生に関与する経路網が、後生動物の進化の過程で驚くほどよく保たれているということである。すなわち、こうした共通の経路網を介することにより、進化の過程で保存されてきた基本的な遺伝子やタンパク質の機能や意義を、我々は理解するようになってきたのである。さらに、こうした知識が、経路網からの疾病の理解にも大いに役立つこともわかってきた。
    ここにおいて、従来から疾患の病態モデル動物として使われてきたマウスやラット、ブタなどの哺乳動物だけでなく、ゼブラフィッシュ、メダカ、ショウジョウバエ、線虫(C.エレガンス)のような分子生物学の定番の簡便なモデル動物も、ヒトの疾病の理解や、医薬品の研究開発のモデル系として役に立つという認識が広がってきた(Swanson04、Kaletta06)。このような認識は、いままでの(ゲノム解読以前の)医学にはなかったことである。
    例えば線虫は、プログラム細胞死 apotosis 現象が最初に見つかった系であるが、その後、この現象はがんと深い関係にあることが発見され、がん研究の中核課題の一つに浮上した(Horvit07)。また、RNAiの現象が発見されたのもこの動物による。ショウジョウバエも、Hox など発生に関与する重要な遺伝子が発見されているが、この系では最近関心の高まっている自然免疫系に関与するToll様受容体(TLR)の類似タンパク質が最初に見つけられている。現在、線虫はがん以外でも、寿命(抗加齢)、代謝性疾患など、重要疾患の有用な材料であると考えられている。同じくショウジョウバエも、寿命(抗加齢)、代謝性疾患、神経疾患などのモデル動物として研究されている。
    双方とも、ゲノムが解読されているだけでなく、遺伝的な解析が網羅的になされていること、RNAiの技法が使えるという利点がある。また低分子を投与して、その応答を見る、スクリーニング系の構築が容易なため、疾患の理解だけでなく、医薬品の開発の材料としても評価されており(Kaletta06, Perrimon07)、最近は食品中の健康維持成分のスクリーニングにも使われている(Hasegawa10)。
    これらの分子生物学でよく知られている実験材料以外にもホヤ、ウニ、カイメン、さらには(もっとも原始的な後生動物あるいはその元祖と見られている)立襟鞭毛虫など、多様な動物が疾患の解明や薬開発の材料に浮上してくる可能性がある。動物ではないが、さらに簡便な分子生物学の材料である酵母も、がんや寿命研究に使われている。

参考文献

  • K. S. Swanson et al., Genomics and Clinical Medicine: Rationale for Creating and Effectively Evaluating Animal Models, Experimental Biology and Medicine 229: 866-875, 2004.
  • Bob Horvit, Genetic Control of Programmed Cell Death in C. elegans, NIH Seminar, January 22, 2007. (http://videocast.nih.gov/launch.asp?13589)
  • T. Kaletta, M. O. Hengartner, Finding function in novel targets: C. elegans as a model organism, Nature Reviews Drug Discovery, online, April 2006.
  • N. Perrimon, Drug-target identification in Drosophila cells: combining high-throughout RNAi and small-molecule screens, Drug Discovery Today, 12(1-2): 28-33, 2007.
  • K. Hasegawa et al, Allyl Isothiocyanate that includes GST and UGT Expression Confers Oxidative Stress Resistance on C. elangans, as Demostrated by Nematode Biosensor, +PLoS ONE, 5(2): e9267.

3.3 がんの経路網

(1) がんを経路網から理解する

    一般にがん cancer と呼ばれている疾患は、医学の教科書では悪性腫瘍 malignant tumor、あるいは、悪性新生物 neoplasm と呼ばれ、発生する組織、細胞種により、がん cancer、肉腫 sarcoma、白血病 leukemia、リンパ腫 lymphomaに分類される。

  • がん(腫): 外胚葉、内胚葉由来の上皮細胞から発生する。
  • 肉腫: 中胚葉由来の結合組織や筋組織から発生する。
  • 白血病およびリンパ腫: 中胚葉由来の造血組織細胞から発生する。

    悪性腫瘍には、増殖 proliferation、浸潤 invasion、転移 metastasis という、3つの特徴が見られる。異常増殖するが浸潤や転移をしない腫瘍は、良性腫瘍 benign tumor と呼ばれるが、これも時に悪性に変化(転化)することがある。一般の関心も高いために、がん研究には大きな金が投じられており、その成果を一般に還元するという意識も高い。例えば、米国のがん研究所 NCI(National Cancer Institute)には、わかりやすい解説のサイトがある(http://newscenter.cancer.gov/cancertopics/understandingcancer/)。
    疾患の機序がわかりにくかったがんも、がん遺伝子が発見されてから、細胞内の遺伝的な変異に原因することがわかって、一気に分子レベルでの解明が進んだ。2000年に、Hanahan と Weinberg は、がんの特徴を、無制限増殖 unlimited replicative potential、血管新生 ability to develop blood vessels (angiogenesis)、細胞死からの逸脱 evasion of programmed cell death (apoptosis)、自己増殖信号 self-sufficiency in growth signals、増殖抑制非応答 insensitivity to inhibitors of growth、組織への浸潤 tissue invasion and metastasis、という6つにまとめた。その後、がんに関連した炎症 cancer-related inflammation がもう一つの特徴として加えられた。
    さらに Hanahan と Weinbergが、がんは経路網から理解しなければならないという思想を明確に打ち出した。現在、この考えは広く受け入れられている(Hanahan00)。ここで言う経路の主役となる pathway は、細胞外からの分子を捕捉する膜にある RTK(Receptor Tyrosin Kinase)のような受容体分子から、遺伝子の発現を制御する転写因子に至る、リン酸化のリレー経路であり、その構成分子の多くはリン酸化酵素 kinase である(Blume-Jensen01)。その中には、p53のようないわゆるがん遺伝子であり、その産物であるタンパク質が転写因子であるものも、含まれている。経路の末端に位置する転写から産生されるタンパク質は、自分自身の細胞あるいは近傍の細胞を刺激して、2次的な転写を引き起こす可能性がある。こうした過程が繰り返されれば、キャスケード的な応用が引き起こされる。これが経路網である。
    経路網からがんを理解するというのは、こうした経路網に含まれる一つあるいは複数のタンパク質の遺伝子に変異が起き、経路網を伝達される信号も異常になってしまうことを意味する(Vogelstein04)。それは例えば、細胞外から増殖信号に当たる分子が結合した場合だけ膜の内側にある残基がリン酸化され、それが細胞の増殖につながるリン酸化の連鎖を引き起こす、というような状況下で、(キナーゼである)膜受容体に変異が生じた結果、外からの信号がない状態で増殖信号を発信し続ける、という状態が起きる、というような場合である。
    今やがんは経路網の研究で前進すべきだという精神は広く受け入れられている(NCI)。また、がん研究によって経路網研究も前進しているという、がんと経路網の研究とが、互いに表裏をなす関係になってきている。そこで蓄積されつつある知識は膨大であるが、以下では、経路網のいくつかの特徴的な事項だけを列挙する(Weinberg06)。

参考文献

  • D. Hanahan, R. Weinberg, The Hallmarks of Cancer, Cell, 100: 57-70, 2000.
  • Peter Blume-Jensen and Tony Hunter, Oncogenic kinase signalling. Nature 411: 355-365, 2001.
  • Bert Vogelstein & Kenneth W Kinzler, Cancer genes and the pathways they control, Nature Medicine, 10, 789-799, 2004.
  • NCIのがんの経路網概念図
  • R. A. Weinberg, The Biology of Cancer, Garland Science, 2006.

(2) 発生とがんに共通する経路網

    がんと最も関係の深い経路網は、発生に関与する経路網である(Kelleher06)。とくに RTK や Hedgehog や WNT などに関しては、それらを標的とする医薬品の開発も行われている(Nieuwenhuis04, Rubin06, Barker06)。
    発生が、細胞が増殖して、あらたな構造が形成される過程であることを考えると、細胞増殖に制約がなくなったがんが、発生と同じような経路網に関係していることは、自然なことのように見える。この知見は、主にマウスを使った実験で得られた成果であるが、発生の経路網が多細胞動物で広く保存されていることはすでに述べた(Boffelli04)。

参考文献

  • C. Kelleher, D. Fennelly, M. Rafferty, Common critical pathways in embryogenesis and cancer, Acta Oncologica, 45: 375-388, 2006.
  • E. Nieuwenhuis, C-c. Hui, Hedgehog signaling and congenital malformations, Clin. Gent., 67: 193-208, 2004.
  • L. L. Rubin and F. J. de Sauvage, Targeting the Hedgehog pathway in cancer, Nature Reviews Drug Discovery, 5: 1026-1033, 2006.
  • N. Barker and H.Clevers Mining the Wnt pathway cancer therapeutics, Nature Reviews Drug Discovery, 5: 997-1014, 2006.
  • D. Boffelli, COMPARATIVE GENOMICS AT THE VERTEBRATE EXTREMES, 5: 456-465, 2004.

(3) 炎症からがんへの経路

図4-6.炎症からがんへの経路
(The Biology of Cancer, Figure 11.41を参考とした)

    生体のがんへの応答は、がんに特有なものでなく、炎症や外傷に似たものである。腫瘍組織には、炎症応答を起こしている細胞やサイトカインが見つかる。動物実験でこうしたサイトカインの遺伝子を働かないようにすると、がんの発症が押さえられることが報告されている。これらの知見から、多様な炎症刺激が、炎症応答細胞を引き寄せ、TNFαや NF-κB を介して炎症反応を引き起こし、がんを誘発するという説が提唱され、広く受け入れられるようになっている(Balkwill00、Coussens02, Karin06)。
    このことは、炎症反応を抑えるようにすれば、がんの予防につながるという考えにつながってきている。

参考文献

  • Fran Balkwill, Alberto Mantovani, Inflammation and cancer: back to Virchow?, Lancet 357: 539–45, 2001.
  • Lisa M. Coussens & Zena Werb、Inflammation and Cancer, Nature, 420: 860-867, 2002.
  • Michael Karin, Nuclear factor-κB in cancer development and progression, Nature, 441: 431-436 2006.

(4) がん治療薬としての Kinase阻害剤の開発

    がんが経路で特徴づけられる疾患であることがわかってから、その主役であるリン酸化酵素 kinase を標的とする薬の開発が試みられるようになった。最初に登場した Kinase阻害剤は、Novartis社のグリベック Gleevec (imatinib mesylate)である。Gleevec は、染色体の異常(brc-ablという転座)でつくられる Abl(Abelson leukemia virus) kinase の阻害剤であり、慢性骨髄性白血病CML治療薬として、2001年の5月承認され、分子標的薬の第一号として有名になった。この薬は、似たような結合構造をもつ約500の化合物から選択されたものであると言われている(Noble04)。
    ヒトのキナーゼの遺伝子は、500を越えると推定されている(Manning02)。キナーゼはスーパーファミリーをなし、共通の構造をもっていると考えられており、多数のX線結晶構造解析の結果もこのことを証明している。キナーゼの全体をキノーム Kinome と呼び、がんに関与するキナーゼを網羅的にしらべること(Manning09)や、それらを標的にした医薬品開発が行われている(Eglen09)。

参考文献

  • Martin E. M. Noble et al., Protein Kinase Inhibitors: Insights into Drug Design from Structure, Science, 303: 800-1804, 2004.
  • G. Manning et al., The protein kinase complement of the human genome. Science, 298:1912–1234, 2002.
  • Brendan D. Challenges and Opportunities in Defining the Essential Cancer Kinome, Sci. Signal., 2(63):p. pe1524, 2009.
  • Richard M. Eglen and Terry Reisine, The Current Status of Drug Discovery Against the Human Kinome, ASSAY and Drug Development Technologies. 7(1): 22-43., 2009.

(5) がんと老化との関係

    多くに生活習慣病と同じように、がんのリスクは年齢と共に高くなる。したがって、細胞のがん化と老化とを関係づけることは自然である。実際にこの間をつなぐ仮説がいくつも提唱されている(Anisimov09)。その一つは、免疫 immunity が介在するという説である。加齢に伴って免疫機能は低下するから、それががんの発生率を上げるという考えである(Derhovanessian08)。問題は、どのような遺伝子やタンパク質や分子経路網が、その両者をむすびつけるかである。Finkelらは、細胞内でおきる自食作用 autophagy が仲介する可能性(図4-7a)と、栄養(食物エネルギー)の状態が影響する(図4-7b)という説を提唱している。

  

 

図4-7a.自食作用 Autophagy が仲介する可能性         図4-7b.栄養(食物エネルギー)状態による影響
(詳しくは Finkel07 を参照)

図4-8.長寿に関係していると思われる経路網
(Vijg08による)

    老化は寿命と表裏の関係にあるが、長寿の経路のところで述べているように、寿命に関係した遺伝子の変異は、カロリー制限による寿命の延長との関係で、酵母、線虫、ハエ、マウスなど、幅広いモデル生物で確認されている。それらは、インスリン insulin あるいはインスリン様成長因子IGF受容体からの経路、酵母で見つかった Sir2(哺乳類のSirt1-7)関連の経路、さらに、TOR (Target of Rapamycin) の経路やミトコンドリアにおける電子輸送系 electron transport chain に関与していることが示唆されている(Vijg08)。
    寿命経路の発見は、変異原物質やRNAiによる遺伝子の不活性化によるものであるから、遺伝子の活性化(over expression)による寿命延長の可能性の確認は残された課題になっている。しかし、仮にがんと老化とが関係しているとすれば、老化を遅らせることが、がんのリスクを低く維持することにつながる可能性が示唆される。このことは、例えば、カロリー制限類似の作用を示す薬(あるいは健康食品)を摂っていれば、がんのリスクを抑えられる可能性を示唆するものであり、がん予防への実践を具体的に提示するものである。

参考文献

  • V. N. Anisimov, E. Sikora, G. Pawelec, Relationships between cancer and aging: a multilevel approach, Biogerontology10:323–338, 2009.
  • Evelyna Derhovanessian et al., Immunity, ageing and cancer, Immunity & Ageing, 5(11):(on-line no page number), 2008.
  • Toren Finkel, Manuel Serrano, and Maria A. Blasco, The common biology of cancer and ageing, 448: 767-774, 2007.
  • Jan Vijg & Judith Campisi, Puzzles, promises and a cure for ageing, Nature 454, 1065-1071, 2008.

(6) がん研究の課題

    これまではブラックボックスであったがんの病理メカニズムの解明は、現在、経路網の同定を基盤として、急ピッチで進められいる。それによって遊離細胞系のがん(リンパ腫や白血病など)には、効果的な薬剤が開発され始めた。これからのがん研究の大きな課題は、いわゆる固形がんや、がんの転移と浸潤の問題である(Mantovani09)。例えばHIFのように、がんの転移や浸潤に関わると思われる遺伝子も見つかっているが、がん組織を構成する細胞が遺伝的に多様 heterogeneous であることが、問題の根源である。
    これに対して、がん患者のがん組織を構成する細胞の(DNAの)変異を網羅的にしらべるプロジェクトが提唱されたが、あまり効果的ではないという批判がなされている(Miklos05)。また、オミックスの発展は、がんにおいても、オミックスの視点でどのような現象であるかを網羅的に記載しておこうという動きを後押ししている(Zbuk07)。
    さらに、問題は、ゲノム(の塩基配列)ではなくエピジェネティクスだという説もあり、エピジェネティクスの項で述べたように、DNAのメチル化の状態を網羅的にしらべようとする計画も提案されている。後生動物に共通する問題は、遺伝子が如何なる状況で発現するかであるが、それはそもそも発生に伴う細胞系譜、空間的な配置、細胞の置かれた環境によって変化する。がん組織の多様性理解のカギとなっているのは、ゲノムの変化だけではなく、DNAのメチル化やヒストンのアセチル化を含む、エピジェネティク事象であるとすれば、病理の状況は時々刻々と変化する極めてダイナミックな現象だということになる。
    一方で、食物(栄養)がエピジェネティクスに影響するという報告が盛んに行われるようになってきている(Choi09)。このような報告は、食物によるがんの予防、あるいは治療の研究も、近い将来は、こうした分子経路網を基礎とするようになる可能性を示唆している。
    がんの病態が経路網から解明されるようになったとしても、がんの多様を考えれば、がんに罹った場合の対策は、そのがんの特性と個人の状況を考慮した、非常に個別的なものになると思われる。しかし、健康食品やサプリメントを組み合わせての予防や予後対策は、加齢や代謝や慢性的な炎症対策を中核とする、食事や運動やその他の生活様式に配慮したものだと解釈できる。このことは、現在の経路網を基礎にしたがん研究が示唆していることでもある。

参考文献

  • Alberto Mantovani, Cancer: Inflaming metastasis, Nature 457, 36-37, 2009.
  • G.L.G. .Miklos,The Human Cancer Project-one more misstep in the war on cancer, Nature Biotehcnology, 23(5): 535-537, 2005.
  • Kevin M. Zbuk and Charis Eng, Cancer phenomics: RET and PTEN as illustrative models, Nature Reviews Cancer 7: 35-45, 2007.
  • Sang-Woon Choi, Simonetta Friso (eds.), Nutrients and Epigenetics, CRC Press, 2009.

3.4 メタボリック症候群

(1) メタボリック症候群

    メタボリック症候群 Metabolic Syndrome とは、1980年代に Stanford 大学の Gerald M. Reaven が提唱した一群の疾病前駆的な症状のことで、最初は (Metabolic) Syndrome X と呼ばれたが、Syndrome X という用語が循環器疾患領域ですでに別な内容(冠動脈狭窄のない虚血性心疾患という意味)で使われていたため、後に Metabolic Syndrome と呼ばれるようになった。それはもともと、複合的な症状を全体として把握する概念であるから、単純明快な定義があるわけではなく、予防医学的に便利な概念として広く使われるようになった用語である。したがって定義にしても、診断基準にしても、厳密には統一されたものではない(Reaven88)。
    Metabolic Syndrome を特徴づけるのは、肥満やインシュリン抵抗性、さらに耐糖能異常 gulucose intolerance、高脂血症(脂質異常、高トリグリセリド血症と低HDLコレステロール血症)、高血圧などの症状である。このような症状があると、「肥満、2型糖尿病、高血圧、高脂血症、動脈硬化、さらには動脈硬化性心血管疾患 Atherosclerotic Cardiovascular Disease(ASVD)などの疾病に移行する前段階の、リスクが高い状態にある」と解釈される。
    Metabolic Syndrome がリスク要因となる疾患群は、かつては成人に至って多く発症するという意味で、成人病と呼ばれていた。その後、成人病は生活習慣病と呼ばれるようになった。Metabolic Syndrome についても、それをそのままカタカナ表記すればメタボリックシンドロームであるが、現在は、その半分を日本語の用語に対応させるメタボリック症候群がより広く使われるようになってきているので、ここでも、それにしたがっている。言葉は生き物であり、時代とともに変化することは、学術用語においても同じである。
    ただし、上記の経緯を反映して、Metabolic Syndrome の定義や診断基準は、国や機関で多少異なっている。世界保健機構 WHOは、1999年に専門家の作業報告書を出している(WHO)。米国の the National Cholesterol Education Program (NCEP) も専門家による検討を行っている(NCEP)。また、米国の心臓病学会も報告書を出している。欧州も同様な作業を行っている (Liberopoulos05)。そうした状況はいくつかの報告に解説されている (Gale08、Alberti08)。
    日本では、松澤佑次を委員長とする日本の医学会横断的なメタボリックシンドローム診断基準検討委員会が、2004年4月に組織され、会合が重ねられて、同年末には我が国としての基準がまとめられた(内科学会雑誌05)。我が国の厚生労働省は、これを受けて検討会を設置して、2008年4月より特定健康診査・特定保健指導制度(指針)として予防対策を発足させている(厚生労働省)。こうした予防対策や、そこで使われている定義には批判もあるが、実践上の便宜を優先した大まかなものであるのはやむをえないだろう。したがって現在の概念や指標は、研究が進み、また実践が重ねることによって、より適切なものに修正されていくと思われる。

参考文献

  • G.M. Reaven, Banting lecture Role of insulin resistance in human disease, Diabetes, 37(12):1595-1607. 1988.
  • World Health Organization, Definition, diagnosis and classification of diabetes mellitus and its complications. Geneva: WHO, 1999. (http://www.diabetes.com.au/pdf/who_report.pdf)
  • Expert Panel on Detection, Evaluation, and Treatment of High Blood Cholesterol in Adults. Executive Summary of the Third Report of the National Cholesterol Education Program (NCEP)
  • Scott M. Grundy et al., Definition of Metabolic Syndrome (Report of the National Heart, Lung, and Blood Institute/American Heart Association Conference on Scientific Issues Related to Definition), Circulation. 2004;109:433-438. (http://circ.ahajournals.org/cgi/content/full/109/3/433)
  • E.N. Liberopoulos, M. S. Elisaf, Diagnosis of the Metabolic Syndrome: Which Definition Should We Use?, Hellenic Journal of Cardiology, 46: 258-262, 2005.
  • S. M. Grundy, Metabolic Syndrome: Connecting and Reconciling Cardiovascular and Diabetes Worlds, Am Coll Cardiol, 47:1093-1100, 2006. (http://content.onlinejacc.org/cgi/reprint/47/6/1093)
  • E. A. M. Gale, K. G.M M. Alberti, P. Z. Zimmet, Should we dump the metabolic syndrome? No, BMJ336(7645): 640-641, 2008. (http://www.bmj.com/cgi/reprint/336/7645/641)
  • メタボリックシンドローム診断基準検討委員会、メタボリックシンドロームの定義と診断基準、日本内科学会雑誌、94(4): 794-809, 2005.
  • 厚生労働省検討会資料 (http://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/08/s0826-9d.html)
  • 厚生労働省制度の資料 (http://www.mhlw.go.jp/bunya/shakaihosho/iryouseido01/info02a.html)

(2) メタボリック症候群 Metabolic Syndrome の分子機序

    Metabolic Syndrome とその関連疾患を分子経路網から理解するという視点からすると、以下のような分子機構についての知見が基礎になると考えられる。

  • 生体における物質代謝とエネルギー変換の均衡に関わる分子機構
  • 核内受容体を中核とした脂質代謝と脂質信号の分子機構
  • 内臓脂肪細胞の役割と肥大化の分子機構
  • 肥満とインシュリン抵抗性および2型糖尿病とを関連させる分子機構
  • 脳における摂食制御の分子機構
  • Metabolic Syndrome をリスク要因とする疾患とそれらの連関

    もちろん、これらの課題は相互に関係している。その全体を通して浮かび上がってくるのは、生体が外部から摂り入れている物質の処理系の存在である。
    先のがんを考えた時には、発生を出発点とした。発生はヒトの成り立ちに関連したもっとも根源的な事象である。がんが発生と分子レベルで深く関連していることは、この疾患がヒトにとって根源的ものであることを意味している。同じように、外部から物質を摂り込むということは、生物においては、それよりさらに根源的な過程と言えるだろう。なぜなら、がんは、多細胞生物(後生動物)に特有の現象であるが、外界からの物質の摂取は、単細胞生物にも共通する生命を維持するための必須の条件であるからだ。
    ながらく進化を研究してきた H. J. Morwitz は、NIHでの講演で、進化において配列などは変化するが、代謝(回路)は強固に保存されてきたと言っている(Morwitz07)。彼がもっとも保存されていると言っているのは、TCA cycle (Krebs cycle あるいはクエン酸回路)である。これは単細胞と多細胞生物に共通する代謝回路である。
    生命の維持にはエネルギーが必要だが、エネルギーは物質の存在様式を変換(生体内では代謝と呼ばれる)することで得られる。すなわち、外部から摂り込んだ物質に潜在的に含まれているエネルギーを生体内で利用可能な形式に変換する過程が必要になる(物質と違ってエネルギーは、厳密な意味では、増えも減りもしない。例えば、化学結合のエネルギーが、熱や機械的なエネルギーに変換されるだけである)。後生動物の場合、このような物質代謝とエネルギー変換を司っているのが、ミトコンドリアと転写を介した糖(炭水化物)や脂質の代謝系である。
    メタボリック症候群をこうした「物質とエネルギーの代謝に関わる不全状態」、と捉えてみると、その本質がよく理解されるように思われる。こうした見方は、メタボリック症候群の分子機序を解明するための一つの作業仮説にあたる。この作業仮説についての詳しい解説は、すでにインターネット上にある(NR-MS Reserch Portal)ので、以下ではそのエッセンスを簡単に紹介する。

参考文献

  • H. J. Morwitz、Evolution and Origin of Life, April 04, 2007 (http://videocast.nih.gov/pastevents.asp?c=64)
  • NR-MS Reserch Portal(http://cbi-society.org/research/NRMS_web/)(パスワードについては管理者に問い合わせること)

(3) 核内受容体

    がんが kinase と関係しているように、メタボリック症候群と最も関係が深いタンパク質は、核内受容体 nuclear receptors である。核内受容体は、生体分子としての構造と作用機序に共通性が見られるという意味で superfamily をなす一群のタンパク質である。核内受容体は、多細胞動物 Metazoans に存在する転写制御因子で、進化の過程でよく保存され、発生や形態形成に関与している。ヒトでは48種が知られ、同じ哺乳類のマウスではそれより一つ多い49種が知られている(Robinson-Rechavi01)。

図4-9.ヒトの核内受容体

    核内受容体は、個性的な領域、DNA結合領域、リガンド結合領域という3つの領域から構成されている。

図4-10.核内受容体 Superfamaily の構造:共通性あり

    リガンドが結合すると、リガンド結合した同じ核内受容体と homodimer を結成するか、異なる核内受容体 (RXR) と heterodimer を結成して、応答配列 response element と呼ばれるDNAの特徴的な配列に結合し、さまざまな遺伝子(標的遺伝子)の発現を促進 activate するか、抑制 repress する。

図4-11.核内受容体 Superfamily の作用様式

    ヒトの核内受容体は、さまざまな生理作用に関与し、内分泌疾患、代謝疾患、がんなどの疾患に関与していることが知られているが、最近は、神経疾患や加齢 aging との関係も研究されている。核内受容体がこれほど多くの生命現象や疾患現象に関与していることが認識されるようになったのは、比較的最近のことであり、とくにヒトゲノム解読計画が終盤に近づいた1990年代の後半からである。
    核内受容体の遺伝子が最初にクローニングされたのは、1985年の glucocorticoid receptor GR であり、当時はステロイドホルモン steroid hormone や甲状腺ホルモン thyroid hormone、あるいはビタミンD3などの受容体として、内分泌系 endocrine system に関与する転写調節に関わる因子と認識されていた。内分泌ホルモン受容体としての核内受容体に関しては、ホルモンに詳しい Tata の総説(Tata02)がある。
    こうしたイメージが大きく変わったのは、リガンドが不明で orphan receptor と呼ばれていた PPAR, LXR, RXR など、一群の核内受容体が sterol のような脂質分子と結合し、それらの代謝に関与していることが発見されてからのことである。ホルモン受容体としての核内受容体も、リガンドであるホルモンが結合すると homodimer あるいは heterodimer を形成してDNAの特定の領域(response element)に結合し、転写を制御するが、リガンドが結合した orphan 核内受容体も複合体を形成して、DNAの response element に結合する。こうした複合体形成で重要な対となる核内受容体が RXR (Retinoid X Receptor) である。
    GRのクローニングに成功したのはエバンズ Ronald Evans であったが、RXR のクローニングを行ったのは、シャンボーン Pierre Chambon のグループであった。この他にも、Evans と Chambon のグループは、核内受容体研究で多くの成果をあげてきた。2005年の Molecular Endocrinology 誌には、この2人の回想録が掲載されている(Evans05, Chambon05)。核内受容体研究の歴史を手っ取り早く知る上でこの2つの回想録は最良の情報である。なお、核内受容体の基本的な作用機序を解明することに大きく寄与したのが Evans研に留学していたが故人なられた K. Umesono 博士である(Umesono89)。

参考文献

  • M. Robinson-Rechavi et al., How many nuclear receptors are there in the genome?. Trends in Genetics 17(10): 554-556, 2001.
  • J. R. Tata, Signalling through nuclear receptors, Nature Reviews, Molecular Cell Biology, Vol. 3, Sept. 2002, pp.702-711.
  • Ronald M. Evans, PPARs and the complex journey to obesity, The Keio Journal of Medicine, Vol. 53 (2004) , No. 2 June pp.53-58.
  • Ronald M. Evans, The Nuclear Receptor Superfamily: A Rosetta Stone for Physiology, Molecular Endocrinology 19 (6): 1429-1438, 2005.
  • Pierre Chambon, The Nuclear Receptor Superfamily: A Personal Retrospect on the First Two Decades, Molecular Endocrinology 19(6):1418-1428, 2005.
  • K. Umesono, R.M. Evans, Determinants of target gene specificity for steroid/thyroid hormone receptors. Cell 57:1139–1146, 1989.

(4) 肥満と脂肪細胞

    メタボリック症候群の2つの指標は、インスリン抵抗性と肥満であるが、マクロ的な病像としてよく知られているのは、内臓脂肪組織 visceral adipose tissue の肥大化である(脂肪組織 adipose tissue は、脂肪細胞 adipocyte の集まりである)。脂肪組織には、白色脂肪組織 white adipose tissue と褐色組織 brown adipose tissue があるが、内臓脂肪組織は、白色脂肪組織である。
    肥満をもたらす内臓脂肪組織の肥大 adipogenesis には、核内受容体である PPARγや C/EBP や SREBP などが関与する(Fontaine03)。また、内臓脂肪組織は、単なる脂肪の蓄積場所ではなく、内分泌ホルモン類似の多様な因子 adipokine を分泌する器官と考えられている。
    よく知られている adipokines としては、糖尿病と関係の深い adiponectine、肥満と関係した leptin や resistin、炎症と関係した TNF-βや IL-6、sirtuin と関係した visfatin (Nampt, PBEF)、さらに脂肪酸 FFA、PAI-1、ApoE、estrogen、androgen、prostaglandin、TGF などである。adipokine の総数は、百を越えると推定されているから、その全容解明 "Adipokinome" は、まだ残されている課題である(Trayhurn04)。

図4-12.脂肪細胞は多様なホルモン様物質 Adipokine を分泌する

    これらの因子は血流に運ばれて他の臓器に影響を与える。個体全体から見た脂肪組織の役割は、エネルギーの収支バランスの調節と、糖 glucose と脂肪 lipid の恒常性の維持と見なされている(Rosen06、Sharma07)。メタボリック症候群研究の一つの目標は、肥満がなぜ糖尿病の引き金になるかである。その媒介役として一時は、resistin が注目されたが、確証は得られていない。
    最近、病態生理学 Pathphysiology 的な立場から関心が集まっているのが、炎症 inflammation との関係である(Rajala03、Hotamisligil06)。炎症はがん化につながるから、これは肥満とがんを結ぶ経路を示唆していることになる。

参考文献

  • From C. Fontaine et al., The Orphan Nuclear Receptor Rev-Erbα Is a Peroxisome Proliferator-activated Receptor (PPAR) γTarget Gene and Promotes PPARγ-induced Adipocyte Differentiation, J. Biol. Chem., Vol. 278, Issue 39, 37672-37680, 2003.
  • P. Trayhurn, L. S. Wood, Adipokines and the pleiotropic role of white adiose tissue, British Journalof Nutrition, 92: 347-355, 2004.
  • E. Rosen, S. B. Spiegelman, Adipocytes as regulators of energy balance and glucose homeostasis, Nature, 444: 847-853, 2006.
  • A. M. Sharma and B. Staels, Peroxisome Proliferator-Activated Receptor and Adipose Tissue—Understanding Obesity-Related Changes in Regulation of Lipid and Glucose Metabolism, The Journal of Clinical Endocrinology & Metabolism Vol. 92, No. 2 386-395, 2007.
  • M. W. Rajala, P. E. Scherer, The Adipocyte—At the Crossroads of Energy Homeostasis, Inflammation, and Atherosclerosis, Endocrinology, 144(9):3765–3773, 2003.
  • G. Hotamisligil, Inflammation and Metabolic Syndrome, 444: 860-867, 2006.

(5) 転写を介した糖と脂肪の代謝制御

    核反応を伴わない生体反応においては、生体が必要とするエネルギーを賄うのは、物質の代謝である。この意味でエネルギー代謝は、物質代謝と独立には考えられない。そしてエネルギー代謝に随伴する物質代謝は糖(炭水化物)あるいは脂肪の代謝である。糖や脂肪は、生体の発電所であるミトコンドリアに供給される燃料にあたる物質である。
    このうち糖の代謝を調節するホルモンがインシュリン insulin である。しかもインシュリンは、そうした役割を担っている生体内の唯一の調節物質(ペプチド)である。したがってこの物質の過不足や機能不全が直接、糖尿病のような疾患に結びつくことになる。
    糖質代謝に関わるヒトのこの特徴は、昔から知られていたことであるが、脂質に関わる代謝が解明されてきたのは比較的最近のことである。とくに脂質に関わる代謝と Metabolic Syndrome の関連が指摘され始めたのは、核内受容体のうちの orphan receptor の役割が解明されてきたことによる。その重要さを指摘したのは、Mangelsdorfらの論文(Chawla01)である。この分子機構をさらに詳しく解説しているのが、Desvergneらの論文(Desvergne06)である。


図4-13.転写を介した代謝のコア経路網
(Beatrice Desvergne, Liliane Michalik and Walter Wahli, Transcriptional Regulation of Metabolism,
Physiol. Rev. 86: 465-514, 2006. FIG 11より改編)

    この図にあるように、転写を介した代謝の制御には、かつて orphan receptor と呼ばれた脂質代謝に関わる核内受容体とその親戚ともいえるような、エネルギー(物質)代謝に関わっている転写因子、C/EBP や SREBP が関与していることがわかる。
    ただし、「NRが中核となる物質代謝系」の全容とその意義については、まだよく理解されていない。いまのところ、NRは後生動物に固有の superfamily であり、すでに述べたように発生に関与する経路網の荷い手の一部として、多細胞動物で広く保存されていることがゲノム解読の進展で確認されている。現在の段階では、「NRに類縁の転写因子として、AhR、Nrf2、SREBP、CREB、そしておそらく Foxa/Foxo などを加えた転写因子群が、後生動物での物質とエネルギーの収支バランス制御の主役として働いているのではないか」、ということを伺わせる状況である。

参考文献

  • Ajay Chawla, Joyce J. Repa, Ronald M. Evans, David J. Mangelsdorf, Nuclear Receptors and Lipid Physiology: Opening the X-Files, SCIENCE, VOL 294: 1866-1870, 2001.
  • Beatrice Desvergne, Liliane Michalik and Walter Wahli, Transcriptional Regulation of Metabolism, Physiol. Rev. 86: 465-514, 2006 (http://physrev.physiology.org/cgi/reprint/86/2/465)

(6) エネルギー変換とミトコンドリア Mitochondoria

    ヒトが呼吸で取り込む酸素の大部分はミトコンドリアに運ばれる。ミトコンドリアは、この酸素を使って食物として取り込んだ栄養素(とくに糖(炭水化物)や脂肪)を、最終的には水と炭酸ガスに変換し、この変換過程で生命を維持するのに必要なエネルギー(ATP)を産生する。ATPの産生は、ミトコンドリアのTCA回路(クエン酸回路、Krebs 回路とも呼ばれる)と酸化的リン酸化 oxidative phosphorylation (OXPHOS) によって行われる。短距離走のような呼吸での酸素供給では間に合わないエネルギー需要には、解糖系でATPを合成するという無呼吸(無酸素)過程が対応する。
    ATPが生体内の化学反応の電池のような役割をしていることは、すでによく知られていた。ただし、ATP産生の分子機構とくに、ミトコンドリアの内膜を隔てたプロトン(H)の濃度差を利用した分子モータとして働くATP合成酵素の驚くべき機構が解明されたのは比較的最近のことである。
    このようにミトコンドリアは、生体内の生化学反応に必要なエネルギー(ATP)を供給する源である。すなわち、生体の発電所あるいは電池生産工場のような役割を果たしているが、最近それだけでなく、さまざまな生活習慣病と関係しているということがわかってきた(McBride06)。例えば、ミトコンドリアで使われる酸素のうち数パーセントは活性酸素種 Reactive Oxygen Species (ROS) に変換され、組織の損傷をもたらす。これは加齢と関係していると考えられている。実際加齢に関与している遺伝子として、線虫で最初に発見された遺伝子age-1は、ミトコンドリアの電子伝達系の構成要素である。
    いずれにしても、ミトコンドリアのエネルギー代謝機能不全は、メタボリック症候群だけでなく、がんやアルツハイマー疾患のような神経変性症など、加齢に伴う疾患の原因となっていると考えられている(Wallace05、香川06)。
    例えば、UCP1, UCP2, UCP3は、ミトコンドリアの内膜に存在し、superfamily を構成する anion carrier protein である。このうちUCP1は遺伝子がクローニングされる前から、褐色脂肪細胞に存在し、ATP産生に依存することなく、ミトコンドリアの内膜の水素イオンHの電気化学的な電位勾配を消滅させることで発熱を促すと同時にエネルギー効率を減少させる、という機能が知られていた。UCP2、UCP3は遺伝子としての配列から見つかったものである。UCP2の変異が糖尿病で見つかったことから、これらの superfamily の Metabolic Syndrome への関与が疑われている(Dalgaard 01, Fisler06)。現在 superfamily には、UCP4、UCP5も追加されている。
    AMP-activated protein kinase(AMPK)は、エネルギーの需要の計りであり、AMP/APTの値が上昇すると、AMPKが活性化され、筋肉における脂肪酸の取り込みや、糖の輸送や分解が促進され、ATPの産生を促進する(Reznick06)。こうしたAMPK経路の機能不全もメタボリック症候群の原因になると考えられている(Fryer05)。
    以上はほんの一例であって、ミトコンドリアと関連するエネルギー代謝経路、とくにOXPHOSに関連するタンパク質は、活性酸素種ROSの発生、メタボリック症候群、炎症、加齢などに関与していることが明らかになってきている。

参考文献

  • Heidi M. McBride, Margaret Neuspiel and Sylwia Wasiak, Mitochondria: More Than Just a Powerhouse, Current Biology, Current Biology, Volume 16, Issue 14, Pages R551-R560, 2006.
  • D. C. Wallace, A MITOCHONDRIAL PARADIGM OF METABOLIC AND DEGENERATIVE DISEASES, AGING, AND CANCER: A Dawn for Evolutionary Medicine, Annual Review of Genetics. 39: 359-407, 2005.
  • 香川靖雄、ミトコンドリアのエネルギー代謝と健康、体力科学、55: 175-180. 2006.
  • L. T. Dalgaard and O. Pedersen, Uncoupling proteins: functional characteristics and role in the pathogenesis of obesity and Type II diabetes, Diabetologia, 44(8): 946-965, 2001.
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  • Richard M. Reznick and Gerald I. Shulman, The role of AMP-activated protein kinase in mitochondrial biogenesis, J. Physiol. 574(1): 33-39, 2006.
  • L.G.D. Fryer and D. Carling, AMP-activated protein kinase and the metabolic syndrome, Biochem. Soc. Trans. 33: 362-366, 2005.

(7) その他の経路

    メタボリック症候群に関与する経路網は、非常に多様である。もっとも単純に考えれば、摂食を抑制することである。実際、肥満やメタボリック症候群の対策としては、食欲の抑制と摂取した食物(とくに脂肪)の吸収阻害が考えられ、実際に薬の開発が行われてきた。レスベラトロール resveratrol のような、食欲抑制をせずに、カロリー制限を模倣する calorie restriction mimic と思われる化合物は、夢の薬の候補である。
    一方、核内受容体とメタボリック症候群との関連が明白になってきてからは、核内受容体を標的とする抗肥満薬の開発が試みられている(Szewczyk05)。ちなみに、糖尿病の代表的な治療薬も核内受容体(PPARγ)を標的とするものである。
    核内受容体への理解が深まると、核内受容体のリガンド代謝に関わる酵素を標的とする薬(Wamil07)や、介添え役である転写の共役因子に関連した標的を狙った研究も行われている。後者の例で関心が高いのは、PPARγの共役因子であるPGC-1を介した、PGC-1-Sirtuin- NADの経路を制御する薬である(Finck06)。サーチュイン Sirtuin は、NAD依存性の脱アセチル化酵素であり、寿命との関連があるとされており、それを標的とした薬の開発も始まっている(Guarente06)。

図4-14.肥満の改善や摂食制限を目的とする薬の開発

    さらに、最近注目されているのは、物質とエネルギー代謝の中核役となる核内受容体の介添え役として機能する、転写の共役因子ではない、タンパク質である。その例として Fibroblast Growth Factor 21(FGF21)がある(Inagaki07)。FGF21は、22種類あるFGFファミリー(FGF1-23、ただしFGF15はない)に属するが、これまで知られていたFGFと異なり、PPARαと相互作用することで、代謝などに関与することが発見され、治療の標的としても期待されている(Kharitonenkov 08)。FGF21は空腹時に脳に至る信号分子の役割も果たしているという知見も報告されており、摂食行動との関係が示唆されている。また、FGF21とPPARγとの相互作用も報告されている(Moyers07)。
    FGF23については、老化に関わる遺伝子として発見されたα-Klotho、およびそのホモログであるβ-Klotho、および膜輸送タンパク質 Na+, K+-ATPase、さらにビタミンD受容体などが複雑に関わったカルシウムの恒常性に関係しているとされている(Kuro-o06)。

参考文献

  • M. Wamil, J.R. Seckl, Inhibition of 11ß-hydroxysteroid dehydrogenase type 1 as a promising therapeutic target, Drug Discovery Today, 12(13/14): 504-520, 2007.
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(8) メタボリック症候群と他疾患との関連

    最初に述べたように、メタボリック症候群は、肥満、2型糖尿病、高血圧、高脂血症、動脈硬化、心血管疾患などに移行する可能がある症状であるが、それらの疾患だけでなく、炎症やがんと関係しているという報告が蓄積されている。炎症については、脂肪組織が炎症因子を分泌することがわかっている。
    メタボリック症候群と炎症に関わる研究者として知られる Hotamisligil は、ショウジョウバエ Drosophila の fat body が、進化的にヒトの脂肪細胞と肝臓の双方に関連していることを指摘している(Hotamisligil07)。彼は、この2つの組織には、免疫を担う血球が侵入しやすいが、Drosophila の fat body はまさにこの3つを兼ね備えているとも指摘している。このことは、炎症因子を分泌する脂肪組織(肥満)と、主に肝臓で行われる核内受容体を介する物質代謝系と、マクロファージ macrophage などが担う自然免疫系とが、進化の上で深い関連のあることを示唆している。
    核内受容体を介する物質代謝系は、生体には有益な栄養分を処理する系である。脂肪組織は、その処理で産生された物質を蓄積するが、そこから炎症因子も産生される。 さらに、この系は、同時に、肝臓の薬物代謝酵素を産生して、毒物を解毒処理する。一方、後で述べるように、自然免疫系は、外来微生物由来の化合物を捕捉して、炎症反応を起し、適応免疫系を活性化して、これを処理する。
    よく知られているように、肝臓における解毒を司るのは、薬物代謝酵素群(Phase I, II, III)である。それらの遺伝子の多くは核内受容体の標的遺伝子になっている。すなわち薬物代謝酵素群の mRNA は、転写因子である核内受容体がDNAの所定の塩基配列 response elements に結合することで転写される。核内受容体のリガンドは細胞膜を容易に透過できる低分子の脂質分子である。薬物代謝酵素は、これらのリガンドの処理役となるものが多い。
    ただし、薬物代謝酵素を誘導するセンサー役としては、核内受容体の他、(例えば Dioxin のような)環境汚染物質の異物センサーである AhR や酸化ストレスに応答する Nrf2 がある。AhR と核内受容体と Nrf2 は、Phase I, II, IIIと分類される薬物代謝酵素の多くを誘導する。この意味で、AhR と核内受容体と Nrf2 は、栄養素であるか毒物であるかを問わず、外来からの化学物質のセンサー Sensor 役となっており、薬物代謝酵素は、処理系 Processor あるいは Effector 役を果たしているとも見なせる。これらの処理系は全体として栄養物、薬、毒物(生体への有害物)、酸化ストレス(活性酸素種)の処理にあたる、生体の物質的な防御系であると解釈できる。こうした防衛系の(上流の)一部となるのが、糖代謝に関わるインシュリンや脂質代謝に関わる系である。
    これらの系で対応できない場合、すなわち微生物と遭遇したような場合は、より大きな化合物に対処できる自然免疫系が対処する。さらに、より高等な脊椎動物では、適応免疫系を動員した防御系が活性化される。自然免疫系は、適応免疫の引き金の役も果たしている。
    栄養素への対応でも、これらの処理系のバランスが崩れ、脂肪細胞が肥大化し、炎症反応が起きることがある。同様に、自然免疫系による応答でも炎症反応が起きる。
    一方、ミトコンドリアでのエネルギー変換では、活性酸素種が産生される。その処理も、上記の物質防御系(Nrf2系)が対応するが、それが十分機能しないと加齢を加速すると考えられている。このエネルギー変換に関するエネルギー・センサーとしては、AMPKの経路や共役因子としての PGC-1 が関連してくる。PGC-1 は、Sirtuin など寿命に関わる系に関係している。
    さらに、こうした系、例えば核内受容体の応答は、circadian rhythm と関係している。睡眠がここに関与することは、容易に想像される。このように、メタボリック症候群と核内受容体は、肥満、2型糖尿病、高血圧、高脂血症、動脈硬化、心血管疾患などの疾患だけでなく、炎症、がん、睡眠、加齢などの生命現象と深く関係していることが明らかにされてきた。これらのことは、疾患予防と健康に食事が如何に重要かを物語る、分子生物学的な知見だともいえる。

参考文献

  • G. S. Hotamisligil, Inflammation and metabolic disorders, Nature 444: 860-867, 2007.

3.5 脳疾患:うつ病と神経変性症

(1) 脳の理解

    生物医学の最終目標の一つは、脳・神経系の解明であると言われている。アルツハイマー疾患が最初に報告されたのは1906年である。今日もよく使われている、脳を染色の違いから、52の領域に区分する、いわゆるブロードマン(Korbinian Brodmann)脳地図が作成されたのも、同じ頃である。この区分は、脳のさまざまな機能と関係づけられた、機能局在説を象徴する表現法であるが、20世紀の後半まで、医療においての脳はまさにブラックボックスであった。1930年代末から1970年頃まで、精神神経疾患(と見なされた)患者の前頭葉を切除するロボトミー robotomy と呼ばれる手術が多数行われていたことが、そのことを如実に物語っている。
    脳が電気(電子)回路のような回路 circut あるいはネットワークとして機能することは、マカロックとピッツ(McCulloch- Pitts 43)のモデルや、ホジキンーハックスレー(Hodgkin-Huxley52)のモデルの提唱によって、広く受け入れられるようになった。その裏にはガラス電極を使った電気生理学的な技法の進歩がある。また、そうした回路の動作として、側抑制 Lateral Inhibition と呼ばれる現象が見られることが、聴覚(フォン・ベケシー、Georg von Békésy)や視覚(Mach Band)で発見されていたが、最近は、この現象が昆虫の嗅覚でも見られることが確認されている(Strowbridge08)。このことは、側抑制が神経系の普遍的なアルゴリズムであることを示唆している。こうした知見は、計算神経科学 Computational Neuroscience への関心を掻き立てた。
    電気生理学的な研究に次いで、神経ペプチドなど脳内物質やそれらの脳内受容体も数多く同定された。また、記憶の物理的な実態も長い間、研究者を悩ませていたが、キャンデル Eric R. Kandel らのアメフラシ Aplysia を使った実験で、CREBなどのタンパク質が関与することが明らかにされた(Kandel06)。さらに、学習回路研究のモデル生物であるアメフラシの神経系の網羅的発現解析も行われている(Moroz06)。かくして脳の(生)化学的な研究も長足の進歩を遂げた。 
    疾患との関係で、現在の脳研究を支える技術は、画像 imaging 技術である。これに関しては、陽電子放射断層撮影PET(Positoron Emission Tomography)や核磁気共鳴法NMRによる撮像法、すなわちMRI(Magnetic Resonance Spectroscipy)が普及しているが、後者を発展させた fMRI(functional MRI)が、脳機能の局在性を捉える無浸襲の計測技法として使われている(Borsook06)。
    さらに、マウスを使った実験であるが、計算機を駆使して、脳内の遺伝子(GPCR)発現の詳細な3次元マップを作成するというような網羅的な計画も進行している(Markram07)。
    脳を構成する神経細胞の死は、脳神経疾患の一つの特徴であるが、アポトーシス(apoptosis、細胞死)は、線虫の発生過程で、とくに神経細胞において観察された現象である。人間の脳を特徴づける遺伝子の候補として最初に発見されたのは、言語障害の遺伝子と考えらえられる Forkhead(FOXP2)である。
    遺伝子のノックアウトなど分子生物学の一般的な技法の進歩と共に、上記のような脳機能の解析技法の進歩によって、脳神経系疾患の研究方法も、この30年ほどの間に、面目を一新している。かくして脳のブラックボックスはこじ開けられ、がんと同じように脳疾患も分子経路網から記述する時代がやってきたと言える。
    脳疾患を理解するための脳と神経系に関する無料の入門書が、米国の脳科学会 Society for Neuroscience から出版されている(Brain Facts08)。

参考文献

  • W. S. McCulloch and W. Pitts, A logical calculus of the ideas immanent in nervous activity, Bulletin of Mathematical Biophysics 5:115-133, 1943.
  • A. L. Hodgkin, A. F. Huxley, A quantitative description of membrane current and its application to conduction and excitation in nerve, Journal of Physiology, 117(4): 500-544, 1952.
  • Ben W. Strowbridge, Nature Neuroscience, 11 (5): 531-533, 2008.
  • Eric R. Kandel, Novel Lecture: (http://www.knaw.nl/heinekenprizes/pdf/8.pdf)
  • Eric R. Kandel, In Search of Memory: The Emergence of a New Science of Mind by, W.W. Norton & Company, 2006. (抜粋、http://www.dana.org/news/cerebrum/detail.aspx?id=622)
  • L. L. Moroz et al., Neuronal Transcriptome of Aplysia: Neuronal Compartments and Circuitry, Cell, 127: 1453-1467, 2006.
  • D. Borsook, L. Becerra, R. Hargreaves, A role for fMRI in optimizing CNS drug development, Nature Reviews Drug Discovery 5, 411-425, 2006.
  • Henry Markram、 Industrializing neuroscience , Nature 445:160-161、 2007.
  • C.S.L. Lai et al., A forkhead-domain gene is mutated is a severe speech and language disorder, Nature, 413: 519-523, 2001.
  • Brain Facts: A Primer on the Brain and Nervous System, Society for Neuroscience, 2008.

(2) うつ病

    うつ病 Depression(あるいは Major Depression 大うつ病と呼ばれる)は、双極障害 Bipolar Disorder、統合失調症(分裂病)Schizophrenia と並ぶ、典型的な気分障害 Mood Disorder 疾患である。うつ病(Major Depression)は、主要疾患の第4位に位置づけられるほど罹患の可能性が高い疾患で、経済的な損失も大きいため、先進国では、大きな関心の的になっている。うつ病の病態生理学はまだ解明されていないが、一般には、脳のセロトニン serotonin (5-hydoroxytryptamine, 5-HT) の不足に原因するという仮説が浸透しており、治療も Selective Serotonin Reuptake Inhibitor(SSRI)が最もよく処方されている。しかし、脳のセロトニンやコルチゾール cortisol 不足は、うつの結果であって、原因ではないと考えられるようになってきた。
    うつ病の臨床における薬の選択については、ある決まった判断の流れ(フローチャートあるいはアルゴリズム)にしたがって、患者の反応を見ながらいくつかの薬を、試行錯誤的に使って様子を見る、というやり方が広く行われている。しかし、これがうつ病治療の大きな問題になっている(NHK取材班09)。それぞれの治療法の効果を判定する臨床研究には、2重盲検法やメタ・アナリシス Meta-Analysis が使われているが、効果の尺度としては、主観に依存したところがある項目と尺度 Hamilton Depression Rating Scale (HDRS) が使われている(Hamilton60)。そのような研究では、SSRIの効き目が偽薬を上回るという結果とそうではないという、相反する報告が混在している。さらに、そのような混乱の原因は、薬効が治療対象となる患者の病気の程度に依存していることにある、という報告もなされている(Fournier10)。このことは、薬が効くか効かないかという問題だけでなく、薬の選択が患者ごとに適切に行われなければならない、ということを示唆しており、臨床における薬の選択には、問題がある事例も多いという経験則を裏付けている。
    うつ病の治療には、抗うつ剤に頼らない、認知療法 Cognitive Therapy と呼ばれる心理療法が知られている(例えば、Burns80)。最近は、東洋医学的な視点を入れた統合医療の立場からの自己治療法も出ている(Gordon08)。こうした療法は、患者が、自分と自分を取り巻く環境についての認識を改め、考え方を変えることで、うつ状態から脱却することを目的としている。このような心理療法は、計算機に例えれば、ハードウエアはそのままにして、ソフトウエアを変更することで、故障を直そうとすることに当たる。
    これに対して、うつ病患者の脳には明らかな構造的な障害が認められるという報告もなされている(Peterson09)。この報告は、子供や孫というようなつながりのあるヒトの集団、131名の脳の核磁気共鳴画像 MRI を分析し、大脳皮質の厚さを較べたものであるが、それによれば、右半球の側表面(lateral surface of the right cerebral hemisphere)がいろいろな領域で薄くなっているグループがうつ病に対するリスクが高いと結論している。これらの領域は、推論、計画、情緒などに関わっているから、その構造的な障害は、うつの症状に合致するというのが、報告者らの主張である。
    一方、アルツハイマー疾患においても、同じような構造障害が見られるという報告がある。これら最近の報告は、うつ病とアルツハイマー疾患との関係を伺わせるものだという説も出されている(Pomara09, Bakkour09, Dickerson09, Ownby06, Green03)。
    なお、うつ病の原因がセロトニン不足なら、朝の運動や食事によって、セロトニンを積極的に産生するような対処法が、うつ病の予防や改善につながるという説も提唱されている(高田08、新谷09)。しかし、これらの分子レベルでの因果関係の解明は、まだ十分なされていない(Akil08, Evans09)。

参考文献

  • NHK取材班、NHKスペシャル うつ病治療 常識が変わる、宝島社、2009.
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  • 有田秀穂、ウォーキングセラピー、かんき出版、2008.
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  • S. J. Evans, H. Akil, S. J. Watson, Analyzing Gene Expression in Depression, Am. J. Psychiatry, 166(9): 961-963, 2009.

(3) うつ病の経路網

    うつ病に関する臨床の現状は、正しい疾患の機序を明らかにすることが、焦眉の急であることを物語っている。したがって、経路網から疾病を記述するということが、現段階では無理なことは明らかであるが、一つの魅力的な仮説を次に紹介する(Maes09)。この仮説は、炎症 inflammation と神経変性 neurodegenerative process を基礎にしている。炎症は、神経変性を引き起こすから、この2つの要因は相互に関係している。

図4-15.うつ病における炎症と神経変性(I&ND)のパスウェイ
うつ病が、炎症とそれが原因となる神経新生低下と神経変性だとする仮説。(Maes09、Figure1を参考とした。
詳しくは、Maes09(http://www.springerlink.com/content/c14v8g7u8r338427/fulltext.pdf)を参照されたい。

    この仮説は、図4-15のような因果関係で表現されるが、出発点となるのは、うつ病では炎症に関わる因子、IL-1、IL-6、INF-γ、TNFαの上昇と IL-10の相対的な低下である。そこでは、酸化ストレス oxidative stress やニトロ化ストレス nitrosative stress の上昇、不飽和脂肪酸ω-3の低下、という知見である。この結果、神経新生 neurogenesis が低下し、神経変性 neurodegeneration が進行する。これが荒筋である。
    この仮説の後半の部分は、神経変性であるが、これに関して Maesらは、うつに陥った患者 unipolar depressed patients の脳のいくつかの部位に体積変化が認められたという Campbellらの MRI による計測結果や、Stockmeierらの剖検結果を有力な根拠に挙げている。Campbellらが指摘した変化は、海馬 hippocampus、扁桃核 amygdala、前頭前野 prefrontal cortex、前帯状回 anterior cigulate、大脳基底核 basal ganglia などの部位に起きている。Stockmeierらは、海馬と神経およびグリア Glial細胞での細胞に変化が見られたと報告している。
    現在、海馬における神経新生の低下は、情緒障害や認知障害を伴う多くの脳疾患の最終段階で見られる知見だと考えられている。ただしこれには、ストレス状況下に繰り返し置かれたことが認知機能の低下をもたらすという反論もある。おそらく、すべてのうつ病患者に脳の構造的な変化が見られるわけではないが、先に紹介したように、脳の構造的な変化がうつ病の病理の一つであると考える報告は、最近増えている。

図4-16.うつ病の病態生理学の概念図
外因的および内因的なストレスが、サイトカインの産生と細胞内の炎症を引き起こし、
うつを引き起こす。Maes09、Figure2を参考とした。詳しくは、Maes09
(http://www.springerlink.com/content/c14v8g7u8r338427/fulltext.pdf)を参照されたい。

    上記の仮説は、セロトニンの受容体やコルチゾールの受容体(GR, Glucocorticoid Receptor)を標的とするような薬剤だけでなく、炎症に関係したサイトカインやサイトカイン受容体を標的とする薬剤開発を検討してみることも有意義ではないか、という作業仮説につながってくる。この場合、すでにある抗炎症薬にも効果があるのか、あるいは新規に開発したものが必要なのかの検討がなされなければならない。また、「omega-3(n-3)の低下」は、「現代の食生活においては、α-リノレン酸(alpha-linolenic acid、ALA、いわゆるω-3、あるいはn-3脂肪酸)が不足し、リノール酸(linoleic acid、いわゆるω-6、あるいはn-6脂肪酸)が過剰になっている」という論争にも関係している(奥山治美08)。
    いずれの場合も、この仮説は、クルクミン curucumin のような NF-κB を介する、抗炎症作用のある天然物の有効性を検討してみることも意義がある、ことを示唆している。
    結論として、おそらく現在うつ病(Major Depression)と括られている疾患は、多様な病態の総称であり、今後研究が進めば、それらはより精密に鑑別されていき、それぞれのタイプごとに適した予防や対処法が判明してくるだろうと思われる。

参考文献

  • M. Maes et al., The inflammatory & neurodegenerative (I&ND) hypothesis of depression: leads for future research and new drug developments in depression, Metab Brain Dis 24:27–53, 2009.
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  • 奥山 治美、市川 祐子、國枝 英子、油の正しい選び方・摂り方―最新 油脂と健康の科学、農山漁村文化協会、2008.
  • NHK取材班、うつ病治療 常識が変わる、宝島社、2009.

(4) 神経変性症

    神経変性疾患 Neurodegenerative Disease とは、脳や脊髄のある領域の神経細胞が消失したり機能不全に陥ったりしてしまう疾患であり、アルツハイマー疾患 Alzheimer's Disease、パーキンソン疾患 Parkinson's Disease、ハンティントン疾患 Huntington's Disease、筋萎縮性側索硬化症 Amyotrophic Lateral Sclerosis (ALS) などが典型例で、これらが4大疾患として知られている。
    このうち、主に60歳以後に発症する認知障害 Dementia を伴うアルツハイマー疾患は、進行を遅らせる薬はあるものの、改善できる薬は開発されておらず、高齢者人口が増大している現在、大きな社会的な脅威になっている。
    1950年代に見つかったパーキンソン疾患は、筋肉が堅くなって、震えが起き、姿勢の維持が不安定となり、動作が緩慢になる、などの症状を伴い、50歳以後に発症することが多いことで知られている。その後、この患者の脳内のドーパミン量が低下していることがわかり、体内でドーパミンに変換される薬(levodopa)の有用性が確かめられた。その後は、異常な活動を示す部位の切除や(幹細胞を含む)細胞移植など外科的な治療法も研究されている。
    主に30歳から50歳頃発症するハンティントン疾患は、歩行、言語、思考、記憶などの機能がゆっくり失われていく症状を呈する。この疾患は、ときに肢や胴体や顔を動かす不随的な動作を伴う。この疾患は遺伝的なもので、原因は、HD遺伝子の triplet repeat と呼ばれる3連の塩基が、繰り返しDNA上に出現する変異であり、結果として huntingtin と呼ばれる異常タンパク質が産生される。この遺伝子の正常な形の産物であるタンパク質は、脳内に広く存在しているが、その機能はまだ明らかにされていない。
    筋萎縮性側索硬化症ALSは、著名な野球選手であったルー・ゲーリック Lou Gehrig に因んでルー・ゲーリック病とも呼ばれる。車椅子の宇宙物理学者として知られるホーキング Steven Hawking も、この疾患であるとされているが、長年活躍を続けていることから異論もある。この疾患では、脳と脊髄の運動に関わる神経細胞が機能不全に陥り、筋肉の萎縮と筋力の低下が起きるため、次第に動くことや呼吸ができなくなる。この疾患も、40歳から50歳代での発症が多いが、原因と治療法は未知である。
    神経変性疾患の市場は大きいため、ビッグファーマ Big Pharma と呼ばれる世界の大手製薬企業は、こぞってこの市場への参入を試みている。
    以下では、社会的な関心の高いアルツハイマー疾患を例として、神経変性疾患の理解と医薬品開発の現状を簡単に紹介する。アルツハイマー疾患に対して、これまで製薬企業が狙っていたのは、cholin、glutamin、serotonine、histamine などの「神経ペプチド」の機能不全の改善か、アミロイドタンパク質 amyloid protein の形成、凝集などの抑制、タウ Tau タンパク質の制御などであったが、現在では、メタボリック症候群 Metabolic Syndrome と同じ代謝の制御やセカンド・メッセンジャーの調節 second messenger modulation などをも標的とするようになってきている。他の疾患でもドーパミン dopamineのような神経ペプチドの機能不全を改善する薬の開発が行われている。しかし、いずれも根源的な治療につながる効果を発揮できる薬の開発にはまだ至っておらず、病態生理学的な仕組みも十分解明されていない。

参考文献

  • Brain Facts: A Primer on the Brain and Nervous System, Society for Neuroscience, 2008.

(5) 神経変性疾患の統合的な理解

    すでに述べたように、個々の神経変性疾患は、原因と治療法が解明されていないものがほとんどであるが、最近、神経変性疾患全体に関わる知見が浮上してきた。その中核になるのが、タンパク質の折り畳まれ不全 Unfolded Protein と、小胞体ストレス Endoplasmic Reticulum Stress、さらにタンパク質の恒常性 Proteostasis という現象である。小胞体 Endoplasmic Reticulum (ER) とは、細胞内にあるカルシウムの貯蔵や、分泌および膜貫通タンパク質の合成と折り畳みと修飾を行っている小器官である。

Proteostasis と Conformational Disease
     一般にアミノ酸の鎖の鋳型であるmRNAから合成されたタンパク質は、シャペロンと呼ばれる別のタンパク質や酵素によって、適切な3次元構造に折り畳まれて、運搬され、本来の機能を発揮し、ユビキチンの働きで分解される。こうしたタンパク質の一生にはさまざまな過程があり、それぞれの過程でさまざまな他のタンパク質や代謝物と相互作用する。タンパク質の合成と分解は、タンパク質の品質管理 Quality Control と呼ばれ、それを含むタンパク質の生涯に関わる過程は、Proteostasis Network(タンパク質均衡ネットワークの意味)と呼ばれる(Balch08, Powers09)。
    この過程の乱れ、すなわちタンパク質恒常性を保つネットワークの破綻は、しばしば疾患につながる。その一つの例が、折り畳まれ方の不全 misfolding/unfoleded である。これには、折り畳まれ方が適切でなく、折れ畳まれていても本来の機能を発揮できない場合と、同じような折れ畳まれ方をした同種の他のタンパク質が凝集され複合体を形成 aggregation する場合とがある。そのような凝集体はアミノ酸配列を異にする多様なタンパク質で観察されているが、総じて、cross-βspine と呼ばれる、非常に規則的な不溶性の似通った構造をとる。このような構造体の存在は、病理組織学の分野では古くから知られており、アミロイド amyloid と呼ばれていた。
    アミロイドの存在が、病態と関係していることは多くの疾患で確認されている。その中には、嚢胞性線維症 Cystic Fibrosis のように、アミロイドの形成によってそのタンパク質本来の機能が失われる loss-of-function 疾患もあり、アルツハイマー疾患やパーキンソン疾患やハンティントン疾患のように、アミロイドが毒性を発揮する場合もある。
    アミロイドが蓄積する疾患の多くは、中枢神経系CNSに関係している。ハンティントン疾患では、polyglutamine が核内に蓄積され、パーキンソン疾患では α-synuclein が細胞質に蓄積され、プリオン病 Prion Diseases では病態タンパク質が細胞外に蓄積され、アルツハイマー疾患では、タウ tau タンパク質とアミロイドβ(amyloid-β、Aβ)が細胞の内と外に蓄積される。
    タンパク質の misfolding という分子機構に関係した疾患 Conformational Disease としては、これらの疾患以外にも Serpinopathies と総称されるいくつかの疾患がある。これには、肺気腫 Emphysema、若年性認知症、肝硬変 Liver Cirrhhosis などが含まれ、そこでは serpin protein と呼ばれるタンパク質の縮合 polymerization が原因になる。この最後の例については、最近X線結晶解析を基礎にした分子機構の解明が報告されている(Yamazaki08)。
    このような知見をもとに、薬物としてアミロイドの形成の阻害、アミロイド除去の促進、アミロイド凝集過程の阻害などを目的とした薬物の開発が進んでいる(Aguzzi10)

参考文献

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(6) ERストレス

    神経変性症を理解するもう一つの重要な概念として、最近注目されているのが、小胞体ストレス ER(endoplasmic recticulum)stress である。小胞体ERはタンパク質の折り畳み工場と見なされている。すなわち小胞体は、可溶性タンパク質や膜たんぱく質の生合成、折り畳み、アセンブリー、修飾に関わっている。細胞内に正常に折り畳まれていないタンパク質が増大してくると、小胞体内の Unfolded-Protein-Response (UPR) 経路が活性化され、Unfolded Protein Pathway(UPR)と呼ばれる一連の応答が引き起こされる。
    この応答の引き金になるのは、低酸素状態 Hypoxia、貧栄養(糖)、酸化還元反応のバランスの乱れ、タンパク質の翻訳後修飾の失敗、タンパク質の産生過剰などである。これに対する応答も多彩であり、タンパク質の分解、細胞死、炎症などが含まれている(Kim08)。さらには、Autophagy も含まれるという報告もある。それゆえ、大量のタンパク質を分泌するように分化した細胞群、例えば macrophage、神経細胞 oligodendrocyte、脂肪細胞 adipocyte、β細胞などにおいては、こうしたUPR経路が活性化されやすく、それらが、動脈硬化、インシュリン抵抗性や肥満、神経変性症、糖尿病、などを招く、という仮説が提唱されている(Schroder05, Ron07, Zhang08)。

図4-17.ERストレス応答
(Kitamura08 Fig.1,2 より改編)

    ERストレス系の入力と出力をつなぐ経路は、複雑でまだ十分解明されていないが、ERの膜にあるPERK、ATF6、IRE1から出発し、多様な遺伝子発現に至る3つの基本経路が見つかっている。それらが疾患ごとにどのように応答するかについては、糖尿病(Eizirik08)や腎疾患(Kitamura08)についての報告がある。

参考文献

  • I. Kim, W. Xu, J. C. Reed, Cell death and endoplasmic reticulum stress: disease relevance and therapeutic opportunities, Nature Reviews Drug Discovery, 7: 1013-1030, 2008.
  • M. Schroder and R. J. Kaufman, “The mammalian unfolded protein response,” Annual Review of Biochemistry, 74: 739–789, 2005.
  • D. Ron and P. Walter, “Signal integration in the endoplasmic reticulum unfolded protein response,” Nature Reviews Molecular Cell Biology, 8(7): 519–529, 2007.
  • Kezhong Zhang & Randal J. Kaufman, From endoplasmic-reticulum stress to the inflammatory response, Nature 454, 455-462, 2008.
  • D. L. Eizirik et al., The Role for Endoplasmic Reticulum Stress in Diabetes Mellitus, Endocrine Reviews, 29(1): 42061, 2008.
  • M. Kitamura, Endoplasmic Reticulum Stress and unfolded protein response in renal pathphysiology, American Journal of Renal. Physiology, 295: 323-334. 2008.

(7) 神経変性症と核内受容体との関係

    上に述べたように、脂肪細胞のERストレスは、代謝性疾患とUPR経路を介した炎症を関係づけるものであり、糖尿病においてUPRとERストレスが関係していることが示唆されている(Eizirik08)。代謝性疾患は核内受容体と深く関係している。だから核内受容体と神経変性疾患との関係が疑われる。
    一時、アルツハイマー疾患の原因遺伝子かと目されたApoEの発見者である、グラクソ Glaxo Smith Klein 社の(当時研究担当副社長であった)ローゼズ A. Roses は、「アルツハイマー疾患は脳の糖尿病だ」と考え、それにしたがって同社は、PPARγ agonists である糖尿病薬を使ってアルツハイマー疾患治療の治験を行っている(Roses07)。実際、PPARγ agonists がアルツハイマー疾患に有効であるという報告は、少なくとも動物実験のレベルでは増えている(Bernardo08)。PPAR作動薬は、酸化ストレス、炎症、アポトーシスを抑制し、インシュリンの機能を維持することでアミロイドβの分解を促進し、ミトコンドリアの機能を回復させて低下したエネルギー代謝を回復させているのではないかと推察されている(Landreth08)。
    同じようにPPAR作動薬は、パーキンソン疾患にも有効であろうという報告がなされている(Chaturvedi08)。その機序も基本的に神経細胞の保護作用であると考えられている。PPARとともに脂質代謝に関わっている核内受容体がLXRであるが、Tontonozらは、LXRが代謝と炎症を仲介していると報告している(Bensinger08)。このようなメタボリック症候群と神経変性症との関連は、ハンティントン疾患にも見られる。
    また、LXRやPPARとは機能が異なるが、同じタンパク質のスーパーファミリーに属する内分泌ホルモン受容体である Estrogen Receptor (ER) が、アルツハイマー疾患に関与しているという報告もある。例えば、Hormone Replacement Therapy (HRT) との関連で、エストロゲンがアルツハイマー疾患の改善に有効であるという経験則が報告されている。例えば、ワイス Wyeth社(後に、ファイザー Pfizer社が吸収)は、マウスを使って、ERαには結合せず ERβに結合する化合物に、アルツハイマー疾患の改善効果があるという報告をしている(Liu08)。

参考文献

  • A. D. Roses et al. Complex disease-associated pharmacogenetics: drug efficacy, drug safety, and confirmation of a pathogenetic hypothesis (Alzheimer's disease). Pharmacogenomics J. 7:10–28, 2007.
  • A. Bernardo and L. Minghetti, Regulation of Glial Cell Functions by PPAR-γNatural and Synthetic Agonists, PPAR Research Volume 2008, Article ID 864140.
  • Gary Landreth et al., PPARγ AGONISTS AS THERAPEUTICS FOR THE TREATMENT OF ALZHEIMER’S DISEASE, Neurotherapeutics. 5(3): 481–489, 2008.
  • Rajnish K. Chaturvedi and M. Flint Beal, PPAR: a therapeutic target in Parkinson's disease, Journal of Neurochemistry, 106: 506-518, 2008.
  • S. J. Bensinger & P. Tontonoz, Integration of metabolism and inflammation by lipid-activated nuclear receptors, Nature, 454, 470-477, 2008.
  • Feng Liu et al., Activation of estrogen receptor-β regulates hippocampal synaptic plasticity and improves memory, Nature Neuroscience, 11(3): 334-343, 2008.

(8) アルツハイマー疾患の標的

    現時点では、アルツハイマー疾患の症状を改善できる薬は存在しないが、上記で述べたような疾病の理解を基盤として、さまざまな薬の開発研究が行われている。以下に上記でふれなかった標的を紹介する。

seladin-1
    アルツハイマー疾患の治療標的として最近注目されているのが、seladin-1 (SELective AD INdicator-1)という遺伝子である。これは、2000年に、アルツハイマー疾患状態の脳の関係領域で発現が抑制されている遺伝子として発見され、神経系を保護する働きがあるとして、アルツハイマー疾患治療の標的になるのではないかと注目されるようになった。これはコレステロールの合成(生合成の最後のステップ)に触媒として関与している酵素をコードする遺伝子であり、caspase3 の働きを抑制して apoptosis を抑制すること、thyroid horomone の影響を受けること、LXRの標的遺伝子であることなど、急速に知見が蓄積されている(Peri08)。この標的に対しては、計算機で構造から治療薬を探索する研究も始まっている。

HDAC(Hystone deacetylase)
    DNAが巻きついているタンパク質であるヒストンの末端のいくつかの残基がアセチル化される現象は、遺伝子発現を制御する、いわゆる epigentic な過程(post translational modification)として、とくにがん化との関係が指摘されており、その阻害剤が抗がん剤となるという視点から、薬物標的として創薬研究者の関心も高くなっている。現在、ヒストン脱アセチル化酵素 hystone deacetylase の阻害剤は、中枢神経系の薬としても注目されている。その状況は、比較的最近の Nature Review Drug Discovery に紹介されている(Kazantesev08)。HDACを標的とする薬物の候補として新たに浮上してきたのが、Sirtuin である。Sirtuin は、メタボリック症候群の治療薬としても注目されているが、NAD依存性のヒストン脱アセチル化酵素であり、class III HDACと呼ばれて、他のHDACとは構造と機能が異なっている。
    興味深いことは、このHDAC阻害剤が、ヒストンのアセチル化をもたらし、記憶の増強とシナプス可塑性をもたらすことである。さらに最近、Kim N. Greenetらは、その阻害剤である nicotinamide(ビタミンB3)が、認知機能障害の回復につながることをマウス(3xTg-AD)使った実験で報告している(Greenet08)。これは現在容易に入手できるサプリメントが、アルツハイマー疾患の改善をもたらすという、かなり衝撃的な話であり、最近マスメデイア(欧米の)でも話題になった。Sirtuin についても計算機による阻害剤開発研究が行われている。

参考文献

  • A. Peri and M. Serio, Neuroprotective effects of the Alzheimer’s disease-related gene seladin-1, Journal of Molecular Endocrinology, 41: 251–261, 2008.
  • A. G. Kazantesev, L. M. Thompson, Therapeutic application of histone deacetylase inhibitors for central nervous system disorders, Nature Reviews Drug Discovery, 7: 854-868, 2008.
  • Kim N. Greenet al., Nicotinamide Restores Cognition in Alzheimer's Disease Transgenic Mice via a Mechanism Involving Sirtuin Inhibition and Selective Reduction of Thr231-Phosphotau The Journal of Neuroscience, 28(45):11500-11510, 2008.

(9) 神経変性症研究の将来

    神経変性症では、脳・神経系のさまざまな領域で神経細胞死が起きている。この神経細胞死は、タンパク質の形状の変化や、折り畳まれ方が不全なタンパク質の凝集体が、細胞の内外に蓄積する現象に関係している。こうした変化の全体を貫くのは、タンパク質の役割の正常な状態からの逸脱である。産生されたタンパク質の分解は、ubiquitin–proteosomal–autophagy system でなされる。
    その原因には、遺伝と環境とが考えられるが、現象として関与しているのは、酸化ストレス、ミトコンドリアの機能不全とエネルギー変換機能の低下、神経ゴルジ装置の崩壊、分子シャペロンや軸索輸送の機能不全、炎症、最終的な神経細胞死などである。それゆえ、これらの疾患への介在点も多数あり、それらを標的とした薬の開発が行われている(Jellinger10)。

参考文献

  • Kurt A. Jellinger, Basic mechanisms of neurodegeneration: a critical update, Journal of Cellular and Molecular Medicine, 2010.

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