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Ⅳ. 新しい医学とミツバチ健康科学
   —9.近未来の課題—

    現在、経済的な先進国では、人口の高齢化と医療費の高騰に悩まされている。一方で、ゲノム解読とITによる生物医学革命が進行している。この2つの流れは相乗して、保健や医療サービスに大きな影響を及ぼすようになっている。新しい時代精神は、いわゆる昔からの生活の知恵や東洋医学を、科学を基礎にした西洋医学の立場から再検討、評価することである。このような時代精神を背景に、このサイトでは、新しい生物医学と従来のミツバチとミツバチ産品に関わるミツバチ学との間に、どのような交流が生まれてくるかを考察してみた。以下では、そうした考察を踏まえて、この交流、すなわちミツバチ健康科学がこれから発展していくための課題を、これまでの議論を整理する形で、いくつか提案してみたい。

ミツバチ生物学の教科書づくり

    第1の課題は、ミツバチ生物学についての教科書を作成することである。現在よく引用されるのは Winston の本(Winston91)であるが、これはゲノム解読以前の感覚で書かれている上に、遺伝学、解剖学的な記述がほとんどない。養蜂経験者によって書かれた Davis の本(Davis04)は、簡便だが、基礎生物学の教科書としては物足りない。Tautzらの本(Tautz08)は、巣の構造やミツバチの行動に関しての記述に優れており、また写真も美しく豊富であるが、やはり解剖学、遺伝学、生理学的な記述がほとんどない。こうした不満は、分子生物学のモデル生物として確固とした位置を占めている線虫やショウジョウバエと比較してみると、容易に納得されよう。後者の場合は、遺伝学、発生学、解剖学、生理学という、基礎生物学的な記述に優れた教科書や、自由に見ることができ、しかも、内容が更新され続けているウエブサイトが構築されている。
    もし、ミツバチを基礎生物学のモデル生物としたいのであれば、線虫やショウジョウバエを範として、同じような教科書(Riddle97, Lawrence92)やウエブサイト(WormBook, Fly Base)を構築する必要があるだろう。このような教科書やウエブサイトがあれば、研究者のコミュニティも自ずと形成されていくだろう。もっともこうしたコミュニティづくりと、優れた教科書や研究者用のサイトづくりは、鶏と卵のような関係にあり、どちらが先とは言えないかもしれない。

モデル生物の比較研究

    第2の課題は、ヒトとミツバチ、さらにそれ以外のモデル生物との比較研究である。そうした比較研究の対象となるのは、発生に関わる経路網、寿命に関わる経路網、核内受容体のような転写因子を介した内分泌系や代謝系、Nrf2を介した酸化ストレス応答系、自然免疫系、腸内細菌叢と腸管免疫系などである。このような研究は、病気にかかり難く健康で活発なミツバチを飼育する技術にも、ヒトの疾患予防や健康にも関係している。一人の研究者が、同時にヒトとミツバチの双方に通じた専門家になるのは難しいかもしれないが、両者が対話できるような研究者のコミュニティや学会は必要になるだろう。

外界からの化学物質への応答系の研究

    第3の課題は、ヒトとミツバチの健康に関わる、化学物質の安全性(毒性)と有用性の研究である。化学物質の安全性あるいは毒性とは、農薬や環境汚染物質、その他生物に危害を加えると思われる化学物質の研究を意味する。有用性とは食品や薬などのことである。生体外から生体に入っていくすべての化合物 chemicals には、この2面性がある。重要なのは選択性 selectivity と量への依存性 hormesis という概念である(Rattan09)。
    ヒトで化学物質への応答を担っているのは、転写因子である AhR、核内受容体、Nrf2と、その標的遺伝子の産物であるいわゆる薬物代謝酵(I, II, III)群である。同様な分子的な機構は、実は、ミツバチにも存在していることがわかってきた。ただし違いもある。両者の相似と相違を明らかにすることが、これからの課題である。同じことは量への依存性についても言うことができる。いまや、このような相似と相違を比較するには、進化 evolution や発生 development の視点からしらべる、Evo-Devo の視点が重要視されてきた。その基礎になるのが比較ゲノム学である。
    こうした比較研究は、当然、他のモデル生物、とくに酵母や線虫やショウジョウバエとの間でもなされるようになってきている。それによって現在行われている、簡易モデル生物をもちいたアッセイ系(Hasegawa10)の信頼性も向上するだろう。したがって、この第3の課題は、上記の第2の課題の一例だと言うことができる。こうした研究は、ヒトの健康食品の研究開発、ミツバチを元気に飼育する餌の開発や、一般的な農薬の研究開発や影響解析の基盤となるものでもある。

ミツバチ産品データベースの整備

    第4の課題は、研究者のためのミツバチ産品についての網羅的なデータベースの構築である。天然物であるミツバチ産品は、当然、品質や成分は一定にならない。それでも、ミツバチが体内で産生するローヤルゼリー、ミツロウ、ハチ毒の成分は、植物起源の花粉、ハチミツ、プロポリスに較べれば、バラツキは少ないと思われる。ゆえに、まず前者についての成分化合物としてのデータベースづくりは可能であろう。
    プロポリスは、基本的に植物成分であるから、そのデータベース化は、植物成分に関するデータベース構築の一環となるか、あるいは少なくとも連係されるべきであろう。これについては有田正則が、Metabolome.JP と連係したプロポリス情報の整理に関心をもっている。
    こうした天然物成分を列挙するのと並行して、それらのミツバチ自身やヒトへの作用に関わる受容体も、その構造とともに列挙していくべきであろう。例えば、フェロモンのような分泌物や匂い受容体 olfactory receptor とそれに作用するリガンド(低分子化合物)も、神経行動学的な研究には有用だろうと思われる。ミツバチではないが、そうしたデータベースづくりは実際に行われており(Schmuker07, Dunkel09)、そうしたデータベースを用いたリガンド探索などの研究も行われている(Triballeau09)。こうした研究では、統計学やデータ解析、パターン認識、QSAR(Quantitative Structure Activity Relation)など、情報学的な方法が駆使されることが多くなるだろう。
    ただ、天然物では単一成分まで絞りこむとかえって、望みの効果が消失してしまうことが少なくない。そのために混合物 mixture のままアッセイすることもあるから、混合物をそのまま成分分析できる方法も必要になる。そうした計測法の一つがNMRを使った Metabolomics/Metabonomics である(Nicholson08、根本09)。

安全性有効性評価法の情報バンク

    最後の課題は、ヒトやミツバチへの安全性(毒性)や有効性を評価するさまざまな評価法 assay に関わる情報を、調査分析してまとめておくことである。現在のところ、これらの評価法は、研究者の興味と置かれた状況で、適当に選択されることが多い。試験管内の in vitro 試験から、動物やヒトによる in vivo 試験まで、評価法は多様である。多様性に富んだ化合物ライブラリーと仮説を検証できる Proof of Concept (POC) のための試験法がなければ、薬の開発はできないが、同じことは健康食品などの研究開発についても言える。
    ただ、評価法の情報バンクをつくるためには、評価法自身の有用性、限界、経済性などを評価することが求められるが、そうした仕事ができる専門家は極めて少ない。一つの範例となるのは、国際的な専門家組織により、化学物質の評価文書を作成している WHO の IPCS(International Program on Chemical Safety、国際化学物質安全計画)である。
    上で述べた課題は、ミツバチ健康科学の立場に立ったものであるが、生物医学研究全体の視点から言えば、保健や医療の実践に違いをもたらすような、ITに先導されたゲノム革命を推進するためには、生物医学研究支援情報計算基盤、主要な疾患に関する経路網と標的に関する情報知識基盤、国民あるいは市民のための健康情報知識基盤、という3つの情報計算基盤を構築する仕事がある。ただしこれらは、広く生物医学研究社会の共通の課題である。
    こうした基盤が整備されるのと並行して、ミツバチ健康科学発展の諸課題が取り組まれて行くなら、この分野の研究は、大いに加速されることになるだろう。

参考文献

  • Mark L. Winston, The Biology of the Honey Bee, Harvard University Press, 1991.
  • C.F. Davis, The Honey Bee Inside Out. Bee Craft Ltd, 2004.
  • Jürgen Tautz, Helga R. Heilmann, David C. Sandeman, The Buzz about Bees : Biology of a Superorganism, Springer, 2008.
  • D. L. Riddle, C. elagans II, Cold Spring Harbor, 1997. (http://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/bv.fcgi?call=bv.View..ShowTOC&rid=ce2.TOC)
  • WormBook (http://www.wormbook.org/)
  • Peter A. Lawrence, The Making of a Fly, Blackwell Scientific Pub., 1992.
  • Fly Base (http://flybase.org/)
  • S. I. S. Rattan and D. Demirovic, “Hormesis Can and Does Work in Humans” in Dose-Response (Prepress): Formerly Nonlinearity in Biology, Toxicology, and Medicine, University of Massachusetts, 1-6, 2009.
  • K. Hasegawa et al, Allyl Isothiocyanate that includes GST and UGT Expression Confers Oxidative Stress Resistance on C. elangans, as Demostrated by Nematode Biosensor, +PLoS ONE, 5(2): e9267.
  • M Schmuker and G Schneider, Processing and classification of chemical data inspired by insect olfaction, Proc Natl Acad Sci U S A, 104(51), 20285-9, 2007.
  • M Dunkel, U Schmidt, S Struck, L Berger, B Gruening, J Hossbach, IS Jaeger, U Effmert, B Piechulla, R Eriksson, J Knudsen and R Preissner, SuperScent--a database of flavors and scents, Nucleic Acids Res, 37(Database issue), D291-4, 2009.
  • N Triballeau, E Van Name, G Laslier, D Cai, G Paillard, PW Sorensen, R Hoffmann, HO Bertrand, J Ngai, FC Acher, High-potency olfactory receptor agonists discovered by virtual high-throughput screening: molecular probes for receptor structure and olfactory function, Neuron, 60(5), 767-74, 2008.
  • Jeremy K. Nicholson & John C. Lindon, Metabonomics, Nature 455, 1054-1056, 2008.
  • Metabolome.JP(http://www.metabolome.jp/)
  • 根本直、新しい食品計測法 「NMR-メタボリック・プロファイリング」入門、ジャパンフードサイエンス、48: 22-29, 2009.
  • IPCS (International Program on Chemical Safety) (http://www.who.int/ipcs/en/)
  • IPCS(国際化学物質安全性計画)文書 日本語版 (http://www.nihs.go.jp/kanren/kagaku.html)

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