山田養蜂場運営の研究拠点「みつばち健康科学研究所」が発信する、情報サイトです。ミツバチの恵み、自然の恵みについて、予防医学と環境共生の視点から研究を進めています。

山田英生対談録
予防医学 ~病気にならないために~

第十二回「家族や地域の介護力で、幸せな人生のゴールを。」

壊れる地縁・血縁社会

山田

昨年の夏、東京都内で111歳の男性が白骨死体で見つかった、というニュースが報じられ、これをきっかけに全国で100歳以上のお年寄りの所在不明が次々と明るみに出たことがありましたね。 私は、このニュースを新聞やテレビで知って、「まさか」と耳を疑い、信じられない思いでいっぱいでした。 「日本はいつから、こんな情けない国になってしまったのか」と大きなショックを受けました。

渡邊

私もあのニュースには、驚きましたね。 これまで海外で講演するたびに、「日本には100歳以上のお年寄りが5万人近く いる」と”長寿日本”を自慢してきただけに、非常にショックを受けました。 親の年金をもらうため、生きているように装った家族は、言語道断ですが、それを何十年も放置してきた行政の怠慢ぶりにも非常に腹が立ちました。

山田

親の所在に無関心な家族関係の希薄さは、もちろんですが、それに気づかなかった周囲もおかしいと思いますね。 日本には、農村社会を中心に「向こう三軒両隣り」という言葉があり、近所とも親しく付き合ってきましたが、核家族化が進んだ今は、近隣社会が崩壊し、都会のマンション住まいともなれば、向こう三軒どころか、両隣でさえ誰が住んでいるかわからないのが現実です。 このニュースは、日本の地縁、血縁社会の崩壊を如実に示したように思えてなりません。

尊重したい本人の意思

渡邊

このケースは、身寄りのない老人が、誰にも気付かれないままひっそりと亡くなっていた孤独死とは違い、実際、家族と一緒に住んでいて、亡くなられた後も、生きているかのように扱われたわけですから余計、考えさせられますね。

山田

「長寿社会の死角」というか、高齢者を見守るべき社会が機能不全に陥っているように私には、思えてなりません。 その一方で、親が生きていることにして、年金を不正受給しなければ生きていけない社会のあり方も問題ですけどね。

渡邊

最近、一人暮らしの人が死後発見される事例が増えてきました。 新聞などは、そのたびごとに「孤独死、孤独死」と書きたてますが、こうした人たちの中には、実際、自分で死にたい、と思って食を断ち、亡くなっている方も多分いるのではないでしょうか。 それなのに、「何歳の人にはこれだけの栄養が必要」といった食事の摂取基準を盾に、無理に食べさせようとする傾向があります。 胃の中に直接、管から栄養物を流し込む「胃ろう」なんかは、その最たる例でしょう。

山田

確かに、そうですね。

渡邊

今の医療は、治療が対症療法中心の西洋医学に負うところが余りにも大きいと思いますね。 例えば、がんなら、「胃にがんがある。 では取り除きましょう」というのがこれまでの現代医学の発想でした。 その点、東洋医学では、がんが体のどこにあろうと、その人の全体をみて、最善の方法を考えようとします。 がんがあっても快適な生活が送れるように手助けをするのも、医療の大切な役目のはずです。 もう少し治療だけでなく、死に方についても本人の意思や自由が尊重されてもよいと思いますね。

敬遠される延命治療

山田

まったく同感です。 人間であれば遅かれ早かれ、死は必ずやってきます。 その人がどのような最期を迎えるかについては今の社会では、本人の意思や希望があまり尊重されているようには思えないのです。 家族も社会も、なぜか避けているように思えてなりません。

渡邊

その人の一生を考えて、この人はどのようなゴールが一番よいのかを考えてあげることは大事だと思いますね。 日本には、「ピンピンコロリ」という言葉があります。 高齢になっても自立した生活を送り、多少持病があってもピンピンしている人が、死ぬ時にはコロリと死んで寝たきりや認知症になる暇もない、という生き方のことですが、人は末期になると段々食が細くなって物が食べられなくなり、最後はロウソクの灯が消えるように「スウーッ」と安らかな表情で自然に逝かれます。 そんな最期が、一番幸せな死に方ではないかと私は思います。 生きている限りは、精一杯生きて、死ぬ時はポックリ逝くー。 そんな生き方を皆さんが目指せば、この社会は、もっと幸福な社会になると思いますね。

山田

本当にそう思いますね。2008年の厚生労働省による終末期医療に関する意識調査でも、「死期が6カ月以内に迫った場合、7割が 延命治療を望まず、3割が延命治療を中止し、自然な死を希望する」との結果が新聞に載っていました。 誰だって人間らしく安らかに自然な死を迎える権利があると思います。 もし、植物状態に陥ったら、先生は延命治療を望みますか。

渡邊

私は、延命のためにたくさんのチューブを体中に巻かれたスパゲティ症候群になるのは、真っ平ごめんですね。 意識がないまま何日間も生かされ、家族に別れの言葉を述べるチャンスも与えられないまま、心電図が止まって「ハイ、ご臨終です」と言われて逝くのは嫌です。 私は、自分が植物状態になった時には、家族には「余計なことはするな。 尊厳死を選ぶように」と書き残してあります。

山田

先生らしい死生観ですね。 確かに、自分が希望する治療は、元気なうちに書面か何かに残しておくとよいかも知れません。 例えば、リビング・ウイル(生前発効の遺言)のように生前、本人の意思や判断力が正常な時に、「必要以上の延命治療を受けず、人間らしい最期を迎えたい」旨を関係団体に登録しておくのも一つの方法でしょう。 そうしたものがあれば、本人にとって何が最善の選択であるか、家族の方も判断しやすいし、悩むこともなくなりま す。

渡邊

以前、「病院で死ぬことは、スパゲティ症候群の状態で死ぬことだ」との報道がありました。 これをきっかけに、必要以上の延命治療を受けないで、人間らしい最期を全うしようという尊厳死を願う動きが全国的に広がりました。 この尊厳死と密接に関係しているのが在宅死といってもよいと思います。 多くの調査でも、「もし不治の病で、死が避けられないとしたら、最期は家族に見守られながら住み慣れた自宅で死にたい」と願う人が8割以上に上るという結果が出ています。おそらく、日本人の共通した願いでしょう。

往診する医師も少ない

山田

私が子どもの頃は、自宅の畳の上で家族に看取られながら亡くなる方がほとんどでした。 死はいつも、私たちの身近にあり、例えば、おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなった時に、死について考えたものでしたが、今はどうでしょう。 そんな機会はほとんどなく、死が私たちの周りから遠ざけられているように思えてなりません。

渡邊

実際、50年以上前は、日本人の8割が自宅で亡くなり、2割が病院で息を引き取っておられたようでしたが、それが今は逆転し、8割以上の方が病院で最期を迎えておられるのが実態でしょう。

山田

昔は、医師が自宅に往診してくれるのが普通でした。 そのために、安心して自宅で最期を迎えることができました。 しかし、今は往診してくれる医師も少ないうえに、ご家族も看取りの経験がほとんどなく、容態が急変した場合の不安が根底にあるため、病院に お願いするケースが多いのかも知れません。

渡邊

そうでしょうね。

山田

その一方で、ご本人にしても、心の中では、「愛する家族に見守られながら死にたい」と願っていても、現実的には「家族には迷惑をか けたくない」との思いもあって、病院での最期を選ぶ方が多いのかも知れません。 でも、残された時間を自分らしく生きるためには、家族に囲まれながら自宅で最期を迎えるのが、本人にとってもご家族にとっても、一番よい選択ではないかと私には、思えますが。 渡邊 実際、そう考える人が多いのではないでしょうか。

望まれる在宅での治療

山田

今、日本では年間120万人近い方が亡くなられ、特にがんは、年間約70万人が罹り、約35万人が亡くなられています。 これから高齢化はさらに進む可能性があり、すべての人が病院で最期を迎えられるかといえば、収容能力から言って難しく、 それだけ在宅で最期を迎えられる方が増えてくると思います。 最期の時を住み慣れた我が家で、家族に囲まれながら過ごすのは、多くの人の共通の願いでもあるでしょう。 そうした在宅での終末期を過ごすうえで、重要となってくるのが家族や地域の介護力ではないでしょうか。 そのためにも往診してくれる医師が増え、介護保険や訪問看護など在宅医療の整備が早急に望まれると思いますね。

渡邊
家族とともに、地域社会とともに。

家族とともに、地域社会とともに。

そう思いますね。 在宅での最期は介護するご家族にとっては、大変ではありますが、その分、介護を受けられる方の思いに応え られるという点では、計り知れない達成感や満足感もあるでしょう。 在宅死が叶わないなら、病院での安楽死を望み、それも無理なら無駄な延命治療は受けたくないと大方の人が本心で思っているのではないでしょうか。 死は自分だけのものではなく、家族や周りの人と共有するものだからです。 誰のためのターミナルケア(終末期医療)なのかをもう一度、私たちは真剣に考える必要があると思いますね。

渡邊 昌(わたなべ しょう)

1941年平城生まれ。医学博士。慶応大学医学部卒。国立がんセンター研究所疫学部長、東京農大教授、国立健康・栄養研究所理事長などを経て、現在生命科学振興会理事長。日本総合医学会会長。「食事でがんは防げる」など著書多数。